2019年6月11日火曜日

怪獣のいる世界:「GODZILLA: King of the Monsters」感想

*5/31公開の映画『GODZILLA: King of the Monsters』の鑑賞後感想を、極力ネタバレなしの方針で書いています。トレーラーから得られる情報などはそのまま掲載しています。




怪獣映画で泣いたことはあるだろうか?

自分はある。沢山ある。子供の頃にも、大人になった今でも、怪獣映画には何度も何度も泣かされている。

記憶の中で一番最初に泣いたのは、(厳密には映画ではないが)1995年放送のウルトラマンパワード第三話「怪獣魔境へ飛べ!」だった。当時小学校に入ったばかりの自分は、パワードというヒーローの活躍に目を輝かせるのではなく、敵役である怪獣レッドキングが彼との闘いで命を落としたこと(崖から転落死した)にショックを受け、わんわんと泣いていたのだ。

見兼ねた母が、「あれはテレビの中の出来事だから」という類の事を諭してきたのも記憶に残っている。だが、自分にとってあれがテレビ番組であるかどうかは問題ではなかった。何故なら、自分にとって、あの瞬間あのレッドキングは世界のどこかに確かに生きていて、そして自分の目の前で死んでしまいもう二度と戻ってこない、その感覚こそが涙の原因だったからだ。

野生生物のドキュメンタリー番組で泣く人は結構いるだろう。それがテレビの映像であっても、そこに映し出されている動物は確かに我々と同じ世界に存在している。厳しい自然の摂理に翻弄され、時には天敵に母や子、そして自分自身の命を奪われるようなことがあっても、彼らはただ必死に生きている。その姿は儚く、逞しく、そして美しい。我々はそのようなものに感動し涙を流すのではないだろうか。

まさしくそれが、自分が怪獣映画で泣く理由だ。

「いやいや、怪獣は作り物でしょ?」と突っ込まれるかもしれない。だが、そうではない。自分にとって、怪獣とはいつでも「本物」だ。本物の、そこに生きている生命だ。自分のいるこの世界ではないかもしれないけど、彼らは確かにどこかに存在していて、彼ら自身の生を謳歌している。そう信じて自分はずっと怪獣映画を観てきたし、大人になった今でもその信仰が変わることは無い。

そのように、頑なに怪獣という生命を信じ、子供心そのままに大きくなってしまった怪獣オタクに、「そうだ!怪獣とは我々と同じ生き物だ!」と力強く叫びかけてくれる映画。「作り物でしょ?」というオトナな突っ込みを圧倒的スケールの映像表現で踏み潰し「どうだ、これが怪獣だぞ」とドヤ顔をしてくれる映画。それが『GODZILLA: King of the Monsters』という作品だ。

以前の記事でも触れたが、怪獣映画の本質のひとつは、劇中に登場する怪獣という「虚構」をいかに「現実」に見せかけるか、というところにある。そのための手法が特撮であり、精巧なミニチュアや実写合成・VFXといった視覚効果を駆使してさも現実世界で怪獣が暴れているかのように観客に感じさせ臨場感を与える、そのために今日までの特撮怪獣映画は進化してきた。

その進化の最先端にあるのがKing of the Monstersだ。前作『GODZILLA(2014)』から引き続き、ハリウッドの世界最高レベルの技術を惜しげもなく詰め込んだ大迫力の映像表現で、怪獣が今まさに自分の目の前にいる事を有無も言わさず信じ込ませてくる。そして、しつこいくらい徹底された「人間が怪獣を見上げるアングル」での表現への拘り。映画に出てくる人間達は、怪獣の足元でひたすら蹂躙される存在だ。まるで地震か台風の中心にいるかのような、見上げれば山のような巨獣の股下という絶望的な状況で、怒涛の衝撃と怒号の中を逃げ惑う登場人物たち。その感覚を、映画館という安全な場にいるはずの我々観客にも半ば暴力的に押し付けてくるのだ。

この映像表現という鈍器で殴られて、「所詮は作り物でしょ?」と強がりを言える人間は早々いないはずだ。誰もが納得させられてしまう。我々の目の前に怪獣がいることを。


そのうえで、怪獣のもつ美しさ、そしてそれに対する賛美を余すことなく映像として表現する、それがKing of the Monstersに込められた精神だ。




いずれもトレイラーからの画像だが、ゴジラ・ギドラ・モスラ・ラドンという四大怪獣のもつ魅力が詰まった一枚目のような「見せ場」が劇中にこれでもかと詰め込まれている。その中で表現される怪獣の姿かたちや一挙手一投足は神秘的かつ原始的で、時に生物的な生々しさをも感じさせる。彼らはあの世界で確かに生きていて、生きている彼らをこの映画はそのまま表現しているのだ。そんなドキュメンタリー性すら感じさせてしまう映像の連続。自分の涙腺を刺激するのは、King of the Monstersという映画に込められた、そんな、怪獣という生物そのものへのリスペクト精神だ。

ひとつだけ、映画本編から引用をしたい。冒頭での芹沢博士の台詞だ。彼はこう言う。

「彼らはMonstersではない、Animalsだ!」と。

このセリフを聞いた瞬間、自分は確信した。この映画は、怪獣を生物として見続けた自分のような人間のためにあるのだと。そして、そこから出てくる怪獣表現のひとつひとつが、「怪獣は我々と同じ世界に生きる生物である」という前提の上で、しかし他の生物とは一線を画す絶対的な存在としての在り様を強烈に物語ってくる。King of Monstersの世界は、怪獣が主人公の世界だ。彼らは強く、逞しく、生き生きとあの世界に跋扈している。それが、自分には涙が出るほど嬉しかったのだ。



ここで、映画の主役ゴジラについて語ろう。

自分が一番泣いた怪獣映画は、『ゴジラVSメカゴジラ』と『ゴジラVSデストロイア』だ。これらの作品では、一個の生物として描かれたゴジラの圧倒的な生命力と強力な生存意思、同族に対する繊細な慈しみ、外敵に対する劫火の如き闘争心、そして最期の瞬間まで威風堂々と生命を謳歌した「怪獣王」としての在り方に感涙を抑えきれなかった(前記事参照)。

平成VSシリーズの終焉から、ゴジラ映画は常に「ゴジラとは何か」という問いに悩まされ続けてきたように思える。時に戦争の怨念として、時に絶対無敵のダークヒーローとして、時には地球の守護神として、作品ごとに設定が試行錯誤されゴジラの在り様は変化し続けてきたが、どうにも自分にはいち生物の範疇を超えてしまったような、あるいは単にゴジラという記号をもった架空のキャラクターとしてしか捉えられていないような姿にはしっくりこない部分があった。

例えば『シン・ゴジラ』では、ゴジラは災害の化身としての姿を描かれた。『初代ゴジラ(1954)』が当時の日本人の心中に色濃く傷跡を残す原爆や大空襲といった戦争の脅威の再来であったように、シン・ゴジラのゴジラは東日本大震災という未曽有の災害の再来であった。それも、核の脅威はそのままに。その意味で、シン・ゴジラという作品は初代ゴジラの正当な現代リビルドだと言える。

一方で、自分はあのゴジラに対して初代ゴジラにもったような生物的な感傷を持つことはついに出来なかった。初見の感想は、「あれは果たしてゴジラだったのだろうか…?」であったし、十数回と観直した今でもその思いは変わらない。作中の巨災対チームのように、自分はあのゴジラを「ゴジラという名前のついた細胞の塊」としか見られなかったのだ。ゴジラの一挙手一投足も、一個の生物として何らかの意思をもって行動しているというより、ひとつひとつの細胞が群体となった巨大な何かが外界からの刺激に対して「反応」しているという風に見えた。それは、これまで怪獣を同じ世界に生きる一個の意思もつ生物として見ていた自分にとって、とても異質で、グロテスクでさえあった。アレは、いったいどんな生物だったのだろう…?その問いが鑑賞後もずっと腫のように残り続けた。

だが、シン・ゴジラという映画の世界ではあのゴジラはあれでよかった。何故ならあの世界にはゴジラどころか怪獣という概念すらそもそも無いからだ。自分の中にあるゴジラという生物像に当てはまらないものが現れたとしても、シン・ゴジラの世界ではそれが「初めてのゴジラ」であることを理解しなければならない。

勿論、災害の化身という一面はゴジラの本質のひとつだし、それを突き詰め、綿密なシミュレーションとストーリープロット、硬派な群青劇でゴジラという怪獣とその脅威に巻き込まれる人間の戦いを描いたシン・ゴジラは史上最高峰の怪獣映画だ。物言わぬ神のように佇むゴジラの風貌も、ひとたび怒りに触れることで人間世界を地獄の有り様に変える阿修羅の如き姿も、そこに見える神々しさと湧き上がる畏怖も、それぞれが初代ゴジラから受け継がれたエッセンスだ。ただ、自分が見たくて堪らなかった生物としてのゴジラの姿がそこにはなかった。そういう話だ。

一方、『GODZILLA(2014)』では原爆の放射線によって突然変異した恐竜という設定から一新し、放射性物質すら餌にする、太古の昔より存在する巨獣としてのゴジラが描かれた。GODZILLA(2014)のストーリーでは、ゴジラは太古より天敵として争ってきたMUTOとの闘いを現代世界で人間も巻き込みながら繰り広げる。この作品でのゴジラは、その行動原理やMUTOとの関係性など、生物的な観点から描かれており、いち生物としてのゴジラの姿は自分にとってとても魅力的に映った。

King of the Monstersのゴジラは前作の設定を受け継いでいる。悠久の時を生き、地球の全てを自らのテリトリーとし、その障害となる他怪獣が目覚めればお互いの存在をかけて殺し合う。原始の覇者、それがこの映画で描かれるゴジラという生物の姿だ。

そのうえで、今作のゴジラにはこれまでになかった新たな一面が加えられることになる。前作から芹沢博士が彼自身の人生のテーマとして追及してきた、「ゴジラと人間の関係性」だ。ゴジラはずっと、人間のいる世界に共に生きる生命として存在してきた。それは作中の設定としてだけでなく、特撮怪獣映画の看板としてのゴジラもまた、65年という長い月日を我々と共に歩んできたのである。

我々は、ゴジラという生物とどう在るべきなのだろうか?

平成VSシリーズでは、その答えを我々が見つける前にゴジラは逝ってしまった。続くミレニアムシリーズ、そしてシン・ゴジラではゴジラは一貫して人類の脅威として在り続けた。排除するべき存在、あるいは敵対的な共生関係としてしか共に在ることの出来ない対象だった。

今作にて、この長く問い掛けられたテーマにこれまでとは違う新たな答えが返されるのを、我々は見届けることが出来る。それも、その問いの始まりとなったあの海の底で眠る、一人の人間と一匹の恐竜に対する最高のオマージュという形で。

自分はその答えに納得し、その尊さに泣いた。そうだ、人間とゴジラはこうあって良かったのだと。心の底からそう思えたのだ。



他の怪獣たちも、これまで彼らの歩んできた歴史を踏襲した上で、あの世界に生きる生物としての新たな性質がアレンジとして加えられており、それぞれに確固たる存在感を持っている。

キングギドラは、ゴジラ史上最大のライバルとして常に彼の怪獣と対極の位置に立ってきた。地球の原生怪獣と宇宙からの侵略者、新たな核により再誕した人類の脅威と人智を駆使したサイボーグ、戦争の怨念と護国の神格、星の守護者と星を喰うもの。今作では王たるゴジラと真っ向勝負を挑み、King of the Monstersの覇権を争う。これまで異星人や人類など他者に操られることの多かったギドラだが、3つ首のそれぞれが独立に思考し、意思疎通をし、中央が左右を統制するという性質をフルに表現されることでより生物的なアクションを行うようになった。ゴジラとの戦いでは、その巨体をぶつけ合い、急所を噛み合うという生々しい血みどろの争いを繰り広げる。これまでになかったダイナミックな肉弾戦法、そして自らの意思で最強の敵役として活躍するその姿に興奮は間違い無しだ。

モスラは、その登場時からずっと善性の怪獣だった。母子の絆、人間との絆、モスラはいつも他者との繋がりのもとで、それを護るために戦っていた。今作でのモスラは一体誰との絆を護るために戦うのか。それが分かった時、その健気さに多くの人が涙腺を緩めるだろう。

小説「プロジェクト・メカゴジラ」にてゴジラの脅威から人類を守るために現れたモスラの姿を見た主人公は、こう漏らす。

「太陽のごとき怪獣」と。

そのビジュアルを、King of Monstersは最高の展開で我々に表現してくれる。立ち込める暗雲と嵐すら彼方に吹き払う日輪の輝き。こんなに美しい生物がこの世界にはいるのか…と心を奪われ、ふと口ずさむだろう。あの歌を。

ラドンは炎の化身だ。初代『空の大怪獣ラドン』にて阿蘇山火口に没した彼の怪獣が、今作ではマグマにすら耐える強靭な肉体と空をも覆う巨躯を得て、再び火の山から蘇る。翼に炎を纏い、まるで不死鳥の如く。

ゴジラの海のように深い蒼と、ギドラの雷鳴伴う眩い金色、ラドンの燃えるような紅、そしてモスラの極彩色。怪獣たちそれぞれのもつカラーが交じり合う、まるで絵画のような光景を、我々はただ茫然と鑑賞することしか出来ない。こんなに巨大で美しい生き物たちが、あの世界にはいるのだ。そして、自分はいま正にその世界へ踏み込み、彼らの繰り広げる怒涛の生存競争に巻き込まれてしまったのだ。

決して虚構ではない圧倒的な存在感と、そこに添えられる生命の輝き。今まさに世界に生きる生物としての躍動感と、古の神格の如き荘厳な美。King of the Monstersは、ただのMonsterという枠にはまらない、Titanとしての、そしてAnimalとしての怪獣の魅力をこれでもかと詰め込んで我々に披露してくれるのだ。

どうだ、これが怪獣だ!と言わんばかりに。




長く書いたが『GODZILLA: King of the Monsters』、色んな人に観て貰いたい。生粋の怪獣オタクも、そうでない人も、「そうだ!これが怪獣映画なんだ!」と、「そうか、これが怪獣映画なのか…」と感じてほしい。

泣いてくれとは言わない、ただそれぞれに楽しんでほしい。

怪獣のいる世界を。
そこに怪獣という生命が生きている感動を。


0 件のコメント:

コメントを投稿