2019年6月11日火曜日

怪獣のいる世界:「GODZILLA: King of the Monsters」感想

*5/31公開の映画『GODZILLA: King of the Monsters』の鑑賞後感想を、極力ネタバレなしの方針で書いています。トレーラーから得られる情報などはそのまま掲載しています。




怪獣映画で泣いたことはあるだろうか?

自分はある。沢山ある。子供の頃にも、大人になった今でも、怪獣映画には何度も何度も泣かされている。

記憶の中で一番最初に泣いたのは、(厳密には映画ではないが)1995年放送のウルトラマンパワード第三話「怪獣魔境へ飛べ!」だった。当時小学校に入ったばかりの自分は、パワードというヒーローの活躍に目を輝かせるのではなく、敵役である怪獣レッドキングが彼との闘いで命を落としたこと(崖から転落死した)にショックを受け、わんわんと泣いていたのだ。

見兼ねた母が、「あれはテレビの中の出来事だから」という類の事を諭してきたのも記憶に残っている。だが、自分にとってあれがテレビ番組であるかどうかは問題ではなかった。何故なら、自分にとって、あの瞬間あのレッドキングは世界のどこかに確かに生きていて、そして自分の目の前で死んでしまいもう二度と戻ってこない、その感覚こそが涙の原因だったからだ。

野生生物のドキュメンタリー番組で泣く人は結構いるだろう。それがテレビの映像であっても、そこに映し出されている動物は確かに我々と同じ世界に存在している。厳しい自然の摂理に翻弄され、時には天敵に母や子、そして自分自身の命を奪われるようなことがあっても、彼らはただ必死に生きている。その姿は儚く、逞しく、そして美しい。我々はそのようなものに感動し涙を流すのではないだろうか。

まさしくそれが、自分が怪獣映画で泣く理由だ。

「いやいや、怪獣は作り物でしょ?」と突っ込まれるかもしれない。だが、そうではない。自分にとって、怪獣とはいつでも「本物」だ。本物の、そこに生きている生命だ。自分のいるこの世界ではないかもしれないけど、彼らは確かにどこかに存在していて、彼ら自身の生を謳歌している。そう信じて自分はずっと怪獣映画を観てきたし、大人になった今でもその信仰が変わることは無い。

そのように、頑なに怪獣という生命を信じ、子供心そのままに大きくなってしまった怪獣オタクに、「そうだ!怪獣とは我々と同じ生き物だ!」と力強く叫びかけてくれる映画。「作り物でしょ?」というオトナな突っ込みを圧倒的スケールの映像表現で踏み潰し「どうだ、これが怪獣だぞ」とドヤ顔をしてくれる映画。それが『GODZILLA: King of the Monsters』という作品だ。

以前の記事でも触れたが、怪獣映画の本質のひとつは、劇中に登場する怪獣という「虚構」をいかに「現実」に見せかけるか、というところにある。そのための手法が特撮であり、精巧なミニチュアや実写合成・VFXといった視覚効果を駆使してさも現実世界で怪獣が暴れているかのように観客に感じさせ臨場感を与える、そのために今日までの特撮怪獣映画は進化してきた。

その進化の最先端にあるのがKing of the Monstersだ。前作『GODZILLA(2014)』から引き続き、ハリウッドの世界最高レベルの技術を惜しげもなく詰め込んだ大迫力の映像表現で、怪獣が今まさに自分の目の前にいる事を有無も言わさず信じ込ませてくる。そして、しつこいくらい徹底された「人間が怪獣を見上げるアングル」での表現への拘り。映画に出てくる人間達は、怪獣の足元でひたすら蹂躙される存在だ。まるで地震か台風の中心にいるかのような、見上げれば山のような巨獣の股下という絶望的な状況で、怒涛の衝撃と怒号の中を逃げ惑う登場人物たち。その感覚を、映画館という安全な場にいるはずの我々観客にも半ば暴力的に押し付けてくるのだ。

この映像表現という鈍器で殴られて、「所詮は作り物でしょ?」と強がりを言える人間は早々いないはずだ。誰もが納得させられてしまう。我々の目の前に怪獣がいることを。


そのうえで、怪獣のもつ美しさ、そしてそれに対する賛美を余すことなく映像として表現する、それがKing of the Monstersに込められた精神だ。




いずれもトレイラーからの画像だが、ゴジラ・ギドラ・モスラ・ラドンという四大怪獣のもつ魅力が詰まった一枚目のような「見せ場」が劇中にこれでもかと詰め込まれている。その中で表現される怪獣の姿かたちや一挙手一投足は神秘的かつ原始的で、時に生物的な生々しさをも感じさせる。彼らはあの世界で確かに生きていて、生きている彼らをこの映画はそのまま表現しているのだ。そんなドキュメンタリー性すら感じさせてしまう映像の連続。自分の涙腺を刺激するのは、King of the Monstersという映画に込められた、そんな、怪獣という生物そのものへのリスペクト精神だ。

ひとつだけ、映画本編から引用をしたい。冒頭での芹沢博士の台詞だ。彼はこう言う。

「彼らはMonstersではない、Animalsだ!」と。

このセリフを聞いた瞬間、自分は確信した。この映画は、怪獣を生物として見続けた自分のような人間のためにあるのだと。そして、そこから出てくる怪獣表現のひとつひとつが、「怪獣は我々と同じ世界に生きる生物である」という前提の上で、しかし他の生物とは一線を画す絶対的な存在としての在り様を強烈に物語ってくる。King of Monstersの世界は、怪獣が主人公の世界だ。彼らは強く、逞しく、生き生きとあの世界に跋扈している。それが、自分には涙が出るほど嬉しかったのだ。



ここで、映画の主役ゴジラについて語ろう。

自分が一番泣いた怪獣映画は、『ゴジラVSメカゴジラ』と『ゴジラVSデストロイア』だ。これらの作品では、一個の生物として描かれたゴジラの圧倒的な生命力と強力な生存意思、同族に対する繊細な慈しみ、外敵に対する劫火の如き闘争心、そして最期の瞬間まで威風堂々と生命を謳歌した「怪獣王」としての在り方に感涙を抑えきれなかった(前記事参照)。

平成VSシリーズの終焉から、ゴジラ映画は常に「ゴジラとは何か」という問いに悩まされ続けてきたように思える。時に戦争の怨念として、時に絶対無敵のダークヒーローとして、時には地球の守護神として、作品ごとに設定が試行錯誤されゴジラの在り様は変化し続けてきたが、どうにも自分にはいち生物の範疇を超えてしまったような、あるいは単にゴジラという記号をもった架空のキャラクターとしてしか捉えられていないような姿にはしっくりこない部分があった。

例えば『シン・ゴジラ』では、ゴジラは災害の化身としての姿を描かれた。『初代ゴジラ(1954)』が当時の日本人の心中に色濃く傷跡を残す原爆や大空襲といった戦争の脅威の再来であったように、シン・ゴジラのゴジラは東日本大震災という未曽有の災害の再来であった。それも、核の脅威はそのままに。その意味で、シン・ゴジラという作品は初代ゴジラの正当な現代リビルドだと言える。

一方で、自分はあのゴジラに対して初代ゴジラにもったような生物的な感傷を持つことはついに出来なかった。初見の感想は、「あれは果たしてゴジラだったのだろうか…?」であったし、十数回と観直した今でもその思いは変わらない。作中の巨災対チームのように、自分はあのゴジラを「ゴジラという名前のついた細胞の塊」としか見られなかったのだ。ゴジラの一挙手一投足も、一個の生物として何らかの意思をもって行動しているというより、ひとつひとつの細胞が群体となった巨大な何かが外界からの刺激に対して「反応」しているという風に見えた。それは、これまで怪獣を同じ世界に生きる一個の意思もつ生物として見ていた自分にとって、とても異質で、グロテスクでさえあった。アレは、いったいどんな生物だったのだろう…?その問いが鑑賞後もずっと腫のように残り続けた。

だが、シン・ゴジラという映画の世界ではあのゴジラはあれでよかった。何故ならあの世界にはゴジラどころか怪獣という概念すらそもそも無いからだ。自分の中にあるゴジラという生物像に当てはまらないものが現れたとしても、シン・ゴジラの世界ではそれが「初めてのゴジラ」であることを理解しなければならない。

勿論、災害の化身という一面はゴジラの本質のひとつだし、それを突き詰め、綿密なシミュレーションとストーリープロット、硬派な群青劇でゴジラという怪獣とその脅威に巻き込まれる人間の戦いを描いたシン・ゴジラは史上最高峰の怪獣映画だ。物言わぬ神のように佇むゴジラの風貌も、ひとたび怒りに触れることで人間世界を地獄の有り様に変える阿修羅の如き姿も、そこに見える神々しさと湧き上がる畏怖も、それぞれが初代ゴジラから受け継がれたエッセンスだ。ただ、自分が見たくて堪らなかった生物としてのゴジラの姿がそこにはなかった。そういう話だ。

一方、『GODZILLA(2014)』では原爆の放射線によって突然変異した恐竜という設定から一新し、放射性物質すら餌にする、太古の昔より存在する巨獣としてのゴジラが描かれた。GODZILLA(2014)のストーリーでは、ゴジラは太古より天敵として争ってきたMUTOとの闘いを現代世界で人間も巻き込みながら繰り広げる。この作品でのゴジラは、その行動原理やMUTOとの関係性など、生物的な観点から描かれており、いち生物としてのゴジラの姿は自分にとってとても魅力的に映った。

King of the Monstersのゴジラは前作の設定を受け継いでいる。悠久の時を生き、地球の全てを自らのテリトリーとし、その障害となる他怪獣が目覚めればお互いの存在をかけて殺し合う。原始の覇者、それがこの映画で描かれるゴジラという生物の姿だ。

そのうえで、今作のゴジラにはこれまでになかった新たな一面が加えられることになる。前作から芹沢博士が彼自身の人生のテーマとして追及してきた、「ゴジラと人間の関係性」だ。ゴジラはずっと、人間のいる世界に共に生きる生命として存在してきた。それは作中の設定としてだけでなく、特撮怪獣映画の看板としてのゴジラもまた、65年という長い月日を我々と共に歩んできたのである。

我々は、ゴジラという生物とどう在るべきなのだろうか?

平成VSシリーズでは、その答えを我々が見つける前にゴジラは逝ってしまった。続くミレニアムシリーズ、そしてシン・ゴジラではゴジラは一貫して人類の脅威として在り続けた。排除するべき存在、あるいは敵対的な共生関係としてしか共に在ることの出来ない対象だった。

今作にて、この長く問い掛けられたテーマにこれまでとは違う新たな答えが返されるのを、我々は見届けることが出来る。それも、その問いの始まりとなったあの海の底で眠る、一人の人間と一匹の恐竜に対する最高のオマージュという形で。

自分はその答えに納得し、その尊さに泣いた。そうだ、人間とゴジラはこうあって良かったのだと。心の底からそう思えたのだ。



他の怪獣たちも、これまで彼らの歩んできた歴史を踏襲した上で、あの世界に生きる生物としての新たな性質がアレンジとして加えられており、それぞれに確固たる存在感を持っている。

キングギドラは、ゴジラ史上最大のライバルとして常に彼の怪獣と対極の位置に立ってきた。地球の原生怪獣と宇宙からの侵略者、新たな核により再誕した人類の脅威と人智を駆使したサイボーグ、戦争の怨念と護国の神格、星の守護者と星を喰うもの。今作では王たるゴジラと真っ向勝負を挑み、King of the Monstersの覇権を争う。これまで異星人や人類など他者に操られることの多かったギドラだが、3つ首のそれぞれが独立に思考し、意思疎通をし、中央が左右を統制するという性質をフルに表現されることでより生物的なアクションを行うようになった。ゴジラとの戦いでは、その巨体をぶつけ合い、急所を噛み合うという生々しい血みどろの争いを繰り広げる。これまでになかったダイナミックな肉弾戦法、そして自らの意思で最強の敵役として活躍するその姿に興奮は間違い無しだ。

モスラは、その登場時からずっと善性の怪獣だった。母子の絆、人間との絆、モスラはいつも他者との繋がりのもとで、それを護るために戦っていた。今作でのモスラは一体誰との絆を護るために戦うのか。それが分かった時、その健気さに多くの人が涙腺を緩めるだろう。

小説「プロジェクト・メカゴジラ」にてゴジラの脅威から人類を守るために現れたモスラの姿を見た主人公は、こう漏らす。

「太陽のごとき怪獣」と。

そのビジュアルを、King of Monstersは最高の展開で我々に表現してくれる。立ち込める暗雲と嵐すら彼方に吹き払う日輪の輝き。こんなに美しい生物がこの世界にはいるのか…と心を奪われ、ふと口ずさむだろう。あの歌を。

ラドンは炎の化身だ。初代『空の大怪獣ラドン』にて阿蘇山火口に没した彼の怪獣が、今作ではマグマにすら耐える強靭な肉体と空をも覆う巨躯を得て、再び火の山から蘇る。翼に炎を纏い、まるで不死鳥の如く。

ゴジラの海のように深い蒼と、ギドラの雷鳴伴う眩い金色、ラドンの燃えるような紅、そしてモスラの極彩色。怪獣たちそれぞれのもつカラーが交じり合う、まるで絵画のような光景を、我々はただ茫然と鑑賞することしか出来ない。こんなに巨大で美しい生き物たちが、あの世界にはいるのだ。そして、自分はいま正にその世界へ踏み込み、彼らの繰り広げる怒涛の生存競争に巻き込まれてしまったのだ。

決して虚構ではない圧倒的な存在感と、そこに添えられる生命の輝き。今まさに世界に生きる生物としての躍動感と、古の神格の如き荘厳な美。King of the Monstersは、ただのMonsterという枠にはまらない、Titanとしての、そしてAnimalとしての怪獣の魅力をこれでもかと詰め込んで我々に披露してくれるのだ。

どうだ、これが怪獣だ!と言わんばかりに。




長く書いたが『GODZILLA: King of the Monsters』、色んな人に観て貰いたい。生粋の怪獣オタクも、そうでない人も、「そうだ!これが怪獣映画なんだ!」と、「そうか、これが怪獣映画なのか…」と感じてほしい。

泣いてくれとは言わない、ただそれぞれに楽しんでほしい。

怪獣のいる世界を。
そこに怪獣という生命が生きている感動を。


2019年6月7日金曜日

修羅道にまつろはず:「隻狼」プレイ感想

*この記事はゲームを2周目クリアまで進めた段階で書いているので、多くのネタバレを含みます。このゲームに興味があっていちから全てを楽しみたいという人はご注意ください。


・はじめに

平成最後の神ゲー、隻狼~Shadows Die Twiceをプレイした。ゲームそのものの魅力については方々のブログやtwitterなどで多くの人が称賛している通り、かくいう自分も戦闘の爽快さやボス戦の死闘感、そしてそれらを乗り切った後の達成感というものに惹かれてゲームを購入し、たちまちその圧倒的完成度に虜となってしまったクチだ。磨き抜かれたアクション・戦闘システムと絶妙な難易度調整、プレイヤー自身が成長を感じられるレベルデザインは秀逸で、少なくともPS4ではこれを超えるアクションゲームは今後中々には出てこないだろうなと思う。それほどにエポックメイキングな作品だった。個人的には、PS2で「ワンダと巨像」をプレイしたあの衝撃に似たものを感じた。

また、背景世界が自分の嗜好にピタリとはまる設計だったことも大きい。純和風の、架空の戦国時代という設定と、どこか退廃的だが美しさを感じる情景。そして道中の端々に佇む道祖神や地蔵様をはじめ、燃え崩れゆく平田屋敷の隠し堂や落ち谷の雪降る底に佇む巨大な菩薩像など、乱世の時代に伴い人々の間に浸透した仏教思想を色濃く反映したマップビジュアル。それらの放つ厳かでありつつどこか儚げな空気と、ストーリーが進むにつれて交わり始める「蟲」や「変若水」といった禁忌のもたらすオカルティックでグロテスクな違和感。こういったひとつひとつが自分にとっては堪らなく魅力的で、この静かで、此岸と彼岸が隣り合っているかのような奇妙な死生観の漂う世界で狼というキャラクターを自由自在に動かせたこと、それ自体がこの上ない楽しみだった。


御仏のいる世界

そんな隻狼というゲームを一通りクリアした今、色々と話したいことはあるのだが、ここでは最も印象深く胸裏に残っているキーワード、「修羅」という存在について主に考えたことを書き連ねつつ、このゲームの感想を語っていきたい。


「修羅」


本編にて幾度となく、幾人かの口から発せられる言葉。猩々は修羅へと落ちかけた自身の境遇と顛末を語り、一心はその修羅を斬り捨てた武勇を豪語する。そして、薬師エマは狼の中にちらつく修羅の影を警告する。

自分のプレイでは、2周目はいわゆる「修羅ルート」を進み、その末に狼は「修羅」へと堕ち、物語はバッドエンドを迎えてしまった。1周目のエンディングとの落差に衝撃を覚えつつも、ふと考える。

修羅とはいったい、何だったのか?

仏教思想が深く根付くこの世界において、修羅というものは如何なる存在なのだろうか。何故人は修羅に堕ちるのか、堕ちてどうなるのか。---そして、修羅となった狼は我々プレイヤーに何を見せたのか。それを、突き詰めていこうと思う。


・諂曲なるは修羅

修羅とは元来、仏教における「阿修羅」、より遡れば古代インド神話・バラモン・ヒンドゥー教における神格の一つ「アスラ」を指す。ここで、仏教において修羅とは、

六道の一つ「修羅道」に住まい、戦闘をこととする鬼の類。常に闘う心を持ち、その精神的な境涯・状態の者が住む世界、あるいはその精神境涯そのものとされる。修羅道では修羅が終始争う。苦しみや怒りが絶えないが地獄のような場所ではなく、苦しみは自らに帰結するところが大きい世界である。[1]
と語られている。また、法華宗の開祖・日蓮大聖人の残した観心本尊抄の聖訓によれば、

貪欲に溺れる餓鬼、本能を制御できない畜生、我執に心を曲げ(=諂曲【てんごく】)争い合う修羅[2]

とある。我執とは自分本位な考えで、我を通すこと。また、自分の心身の中に恒常不変の実体があると考えて執着することである。

つまり修羅とは、自らの内から生じた欲求、あるいは苦悩や怒りといった負の情念に取りつかれ、それを不変のものと成すために他者と闘争を行うものと考えられる。

殺人は闘争における最も単純な勝利の形を現わす。故に修羅は、人斬りに囚われるのだろう。


・忍びの業

人斬りとはまた、忍びの生業でもある。
ゲーム中で敵を倒す=殺す、あるいはマップ上で死の痕跡が強い、例えば仙峯寺の参道で大量の人身御供がうち捨てられた場所などを訪れると、「形代」というアイテムを入手することが出来るのだが、このような説明がある。

形代は心残りの幻である 
ゆえに業深いものは、形代が多く憑く
多く殺した忍は、
その身に業を背負い、生きることになる
形代とは人の残した無念そのものだ。怒りや悲しみ、他者への恨みや妬み、そして道半ばにて死んでしまった自己への嫉み。こういった負の感情が、人を斬る度に忍びの身へ纏わりついていく。蓄積した無念は怨念となり、やがてその者自身の苦しみとなる。修羅道の苦しみは自らに帰結する、という言葉の通りである。

エマや一心は、狼と対面した当初から、彼の内に潜む修羅の影を見出していたようだ。忍びの生業を続けることは、修羅道の奈落へと続く下り坂を静かに降りていくことと同意だ。狼というキャラクターは、物語の最初からいずれは修羅へと堕ちていく存在として運命づけられていたのかもしれない。


・掟か道理か

しかし、プレイヤーの選択によって狼の結末は変わる。その分水嶺となるのが天守閣での父・梟との問答である。ここで狼=プレイヤーは、忍の掟により父たる梟の命に従うか、それに抗い御子・九郎を守るのか、どちらかを選ばなければならない。

父か、主か。

この選択は同時に、狼自身を縛る我執からの自立を問うている。狼の我執とは、つまりは忍びの掟そのものである。

天守閣での選択は、一見すると忍びの掟の一を取るか二を取るかというものに捉えてしまいがちだが、ここで九郎を取るということは、御子の目指す不死断ちの道を共に歩むこと、人の、人としての当たり前の生き方を歪める龍胤を正す、すなわち「道理」を目指すということだ。これは、単に忍びの二の掟に従うだけでは成すことが出来ない。実際に、物語序盤にて葦名弦一郎を破り御子を取り戻した狼は、忍びの掟に背いてでも御子の意思に順ずるのかの選択を迫られている。プレイヤーの選択によって一度は掟の順守に固執する狼ではあるが、最終的には御子の決断に従い、共に不死断ちの道を歩み始めることとなる。だが、この時点では不死断ちは狼自身の決断ではなく、あくまで御子の意思を尊重した、あるいそれに気圧された形で納得した結果の行動に過ぎないように見える。そうして、多くの人間を、幻影を、不死の蟲付の獣をも屠った狼。彼は今一度、ここで問われるのである。

掟を守り、忍びとして再び業の道に戻るか。
掟に背き、自らの意思で尋常ならざる不死断ちの道理を行くのか。

忍びの掟は狼という人間の生き方、あるいは彼の人間性そのものの根本を成すと言っても過言ではない。戒律のように寡黙に守ってきたそれを、掟に囚われた自身の過去とともに捨て去り、「かくあれかし」とひたすらに人としての道理に生きるという選択は、並大抵の覚悟ではなすことは出来ない。

だから、御子を裏切り父につくことを選択した狼は、むしろ自分にとってはとても人間らしいように見えた。彼は掟という鎖に縛られた一人の人間だった。それだけの話だ。だが、忍びの掟に固執すれば、同時にその掟とともに在る業と、積もり積もる怨嗟から解放されることも叶わない。

かくして、御子を捨てた忍びは修羅道の底へと堕ちていく。


・修羅に至る

狼が修羅へと成り果てるにあたり、もうひとつ決定的となった事由がある。

柔剣エマを斬り伏せたことである。



夕日に映える天守閣での死合いとその結末
特に美しく悲しい忍殺シーン

といっても、正直なところエマ個人には狼の修羅堕ちを加速させる要因はそれほど無かったように思う。二人は幼いころに面識があり、薬師見習いのエマは狼に治療を施したエピソードもあるのだが、肝心の狼自体はそのことを忘れている。また、確かに御子を救出するために狼が動き出すきっかけを作ったのは彼女であるし、道中にて必要な情報を提供してくれたり、竜咳を治す手立てを発見し、狼の戦いの大きな助けとなる治療を施してもくれる。だが、彼女は結局御子を奪還するためのサポートであったに過ぎず、狼にとっては感謝こそすれ、それ以上の個人的な感情を持つような相手にはなり得ないだろう。

「主君を裏切った上に愛しい人をも手にかけた結果の闇落ち」というようなエピソードは狼とエマの関係では当てはまらない。

重要なのは、御子と同じく人としてのあるべき道理を貴ぶ彼女が、歪みを正すことを放棄した狼の敵となったこと。そしてその彼女を斬り殺してしまったこと。その事実である。

エマを忍殺し、夕日に佇む狼。これまで頑なに真一文字に結ばれていた彼の口元に僅かに綻びが生じる。まるで最後に残った僅かな良心で”それ”を必死で抑えているかのように、あるいは感情の表し方を知らない初心な赤子のように。

自らの内から生じた「欲求」と「快感」に、狼は嗤ったのだ。

父の命に従って戦い、殺した。あのか細い喉元に刃を突き立てた感触。彼女は正しく在った人間だった。理に生きる人間だった。それを成せる強さ、葦名の剣豪に匹敵する腕前も持っていた。それを、道を違い理に背いた自分が切り捨てた。戦いの果てに、我が業が道理を凌駕した。

…それは、なんと、心地の良いものか…。
かくして狼の修羅としての闘争は、他者を、その貴ぶ道理諸共に斬り伏せる征服感とともに始まった。


逢魔の時

そんな彼の前に立ちはだかる葦名一心、まさしく強さの権化と呼んで遜色ない、修羅すらも斬った男。一心と対峙し、今まさに刃を交えようとする瞬間にも狼の唇の綻びは消えない。自分を修羅と呼び、正そうとする者をまた斬れる…、その高揚感を最早隠そうともしないのである。

不愛想だがどこか憎めなかったという男の変わり様に、しかしながら老練の一心は微塵も揺るがない。人斬りの快感に酔った狼でさえ一刀のもとに斬り伏せるその実力には、自分も含め多くのプレイヤーが何度となく敗北を喫したことだろう。

だが、幾度もの挑戦の末、狼は葦名一心を打倒する。
恐怖は絶対
一時の敗北はよい。だが手段を選ばず、必ず復讐せよ 
狼の我執、忍びの掟の三。皮肉にも狼に与えられた龍胤は、まさしく呪いのように、復讐のために立ち上がり続ける力を与え、狼に修羅の戦いそのものをなさしめた。斬り、斬られ、また斬り、斬られ…、最後に斬り倒す。ここにおいて、我々プレイヤーが回生というコンティニューコマンドを使って強敵との闘いに勝つというゲームのシステムそのものが、修羅へと堕ち行く狼というフレーバーに重なってしまったのだ。

燃え盛る天守閣に老剣豪が斃れた時、我々プレイヤーは強敵を倒した達成感に喚起したことだろう。だが、修羅を斬ってやれなかったという一心の無念を、そして彼が己の剣を極めるため成してきた業をも”征服”した狼は、その時如何なる表情を浮かべていたのだろうか。


・父殺し

大忍び・梟はまさに絶頂の最中、有頂天の様を見せていた。

葦名の領主、その輩、跡継ぎすらも悉く斃れ、不死の門を開く鍵は全て手中にあり。今こそ天下に我が名を轟かせる時、と眼下に広がる葦名の地に向かって高らかに己の真名を宣言する。が…


頂に登った男は、その背後で何が生まれ出でたのかを見定められなかった


狼はなぜ、忠誠を誓い直した父を殺したのか。それも正面から刃を交えることもせず、半ば騙し討ちのような形で。

まさしくそれは、修羅へと堕ちた狼の父への復讐であったのだろう。天守閣での会話から、三年前の平田屋敷で起こった惨劇の主犯が父であったことに狼は勘付いている節がある。その父が、あの時の自分と同じように無防備に背中を晒している。「手段を択ばず、必ず復讐せよ」。最早呪いの如く纏わりついたコードに従い、狼は動く。人生の絶頂にある我が父の今まさに踏み出さんとする覇道を、息子に裏切られ刃も交えずに殺されるという最も残酷な方法で終わらせるのだ。父を越えるのではなく、踏み躙る。それこそが復讐だ。

かくして道理を捨て、主を捨て、更には父すらも捨て、復讐を成した狼の義手には怨嗟の炎が灯る。我執に心を曲げ、あらゆるものの無念を吸い、他者を打ち倒すことのみに取り憑かれてしまった修羅の姿が炎の中に浮かび、物語は終焉を迎える。


悲痛な御子の叫びも、もはや狼には届かない
修羅となった男に残るのは永遠なる闘争の世界のみ

これが修羅ルートの顛末、人としてあるべき選択を取れなかった狼の末路である。


・修羅を越えて

そして今、修羅エンドを経て、自分は3周目の攻略プレイをしている。

1周目2周目は、ただひたすらに強敵(雑魚ですら気を抜けば瞬殺される正に戦国仕様だ)を乗り越えることだけを一念に刀を振り続けた。強敵に繰り返し挑み、少しずつテクニックを上達させながら彼らを打ち倒すこと、それがこのゲームの唯一のルールだと思っていたからだ。だが、掟という呪いに囚われ、人を斬り続けた狼が修羅へと堕ちてしまったのを見届けた今、考えなければならない。

なぜ斬るのか?と。

ゲームの周回を積むごとにストーリーの深部を徐々に理解していき、そこから湧き立つフレーバーをプレイングに上乗せする。隻狼というゲームの醍醐味の一つはここにあると自分は考えている。いわゆるフロム脳というやつだ。

狼というキャラクターも良く見ればとても感情移入しやすいデザインがされている。不愛想だがどこか憎めないという一心の言葉の通り、感情が無いわけではなく不器用なだけ、他人を思いやる人情も持ち合わせており、幼少期の思い出を甘味に馳せる人間味もある。

そんな狼に歩ませる不死断ちの道は極めて過酷だ。彼はその道に立ちはだかる敵を、数多の不死を、神たる白蛇や龍を、時には全盛の父の影をも、斬らねばならない。

そうして斬り続けた狼に最後に対す、「鬼」と「剣聖」。

ひとつは修羅の成れの果て。狼と同じく忍びの業を背負い、積もり積もる怨嗟に耐え切れず仏の道に縋るも、ついには自らの内より燃え上がる炎に飲まれた者。怒りの権化の如く戦場にて踊り狂いながら狼を待つ。

ひとつは修羅すらも超えた力の体現。我執を捨て、ただひたすらに剣を極め続けた老剣客の全盛の姿。最後の最後に道理を曲げ、「国」のためにと嘯きながら狼へとその究極の剣技を振るう。

なぜ、彼らを斬らねばならないのか?

御子のためか?御子の目指す道理のためか?それとも狼自身の選んだ、一人の人間としての在り様のためか?

この問いにプレイヤーなりの答えを見出し、死闘の末にすべての敵を打ち倒さなければならない。「迷えば、敗れる」のだ。

そしてその先に迎えるエンディングで、御子が、狼が、例え1周目と同じ結末を迎えたとしても、これまでとは一層違った感慨を抱くことになるだろう。

あの夕暮れの天守閣から続く”修羅”と”道理”の問答に決着を。
そう思いながらコントローラーを握り、忍びと共にまたあの世界を駆け抜けていきたい。


引用

[1]https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E4%BF%AE%E7%BE%85
[2]http://www.hokkeshu.com/about/04personal_02.html