2019年5月14日火曜日

特撮怪獣映画のすゝめ

令和の時代も、怪獣映画を楽しもう。

改元にあたり平成の31年間をいざ顧みると、特撮怪獣映画というひとつのコンテンツにとっても山あり谷ありの歴史だったと思える。新しき時代のゴジラ映画とも言うべき「ゴジラVSビオランテ」の公開に始まり、バブル期の高揚感に支えられたVSシリーズの快進撃やゴジラ・モスラ・ガメラの人気怪獣を主役にした独立シリーズの確立による華々しい黄金期の到来、そしてゴジラの死に泣き、ガメラ3・ゴジラ2000と世紀末を迎え、ミレニアムシリーズの終焉とともに長い冬の時代を経て、2014年のハリウッドゴジラと2016年のシン・ゴジラの公開によるゴジラ映画の大復活、それに続くキングコング:髑髏島の巨神・ランページ・GODZILLA怪獣惑星などの日米合わせた新作のラッシュ。

幸いにも、平成最後の数年間は怪獣映画オタクにとっては予期せぬ越冬と春の到来であり、「これからも年々新しい怪獣映画が楽しんでいけるんだ!」という期待感に恵まれた素晴らしい時間だったといえるだろう。最早特撮怪獣映画は死にゆくマイナーコンテンツではなく、いまいちど大衆娯楽映画としての地位に返り咲いたといっても過言では無い。

嬉しいことに、この勢いは新しき令和の時代にも続いていく。現に、その歩み出しとなる今月末にはハリウッドゴジラの頂点となりうる(と個人的に期待している)GODZILLA: King of the Monstersの公開が控えている。初代ゴジラからの日本怪獣映画全般に造詣の深いドハティ監督の製作指揮する本作、トレイラーだけを観ても昭和・平成問わず様々な怪獣映画へのオマージュが所々に散りばめられている。おまけにハリウッドの総力を駆使した映像表現による「怪獣オペラ」と銘打たれており、オタク垂涎のクオリティであることは間違いないだろう。きっと怪獣映画が好きであれば好きであるほど楽しめる内容となっているはずだ。

そんなKoM、やはり怪獣映画のエッセンスを知らずして鑑賞するのはもったいない!

ということで、今一度自分にとっての怪獣映画観を振り返るという意味でも、「ここらあたりを観ておけばこれから公開される怪獣映画がもっと楽しめるようになる!」といった感じの解説記事を作ってみようと思い立った。

あくまで「個人的な見方」ではあるが、この記事を見て特撮怪獣映画に興味を持ったなら、KoMの公開前であれ後であれ、ぜひ視聴していただきたい。

*なお、この記事は6年前に別所に投稿した別記事の修正書き起こしなので、2014年のハリウッドゴジラやシン・ゴジラ、怪獣惑星などの作品については言及しない。これらについては、KoMの公開に合わせてまた別記事で触れられればと思う。



カテゴライズ

怪獣映画を評価する基準として、自分は【リアリティ】【特撮技術】【ロマン】の3つを重要視している。

一つ目は、「巨大な怪獣が人間世界に現れる」という非日常な現象を、役者の演技や背景設定、ストーリープロットによりどこまでフィクションを感じさせない現実感を伴ったものとして表現できているか、という評価。二つ目は、ミニチュアセットのクオリティや怪獣の操演、破壊・爆発描写など、特撮映画が特撮映画たるVFXを、どれだけ高いレベルで活用出来ているか、という評価。三つ目は「怪獣が主役の映画」である怪獣映画としてのストーリー性、怪獣そのものがどれだけ魅力的な存在として描かれているか、という評価。

このリストでは、これら三つの項目について特にポイントの高いと個人的に思われる作品をあげ、簡単な解説や見どころなどを紹介したいと思う。基本的に自分はシリアス志向の怪獣映画が好きなので、バイアスは大いに感じられるかもしれないが、悪しからず。



【リアリティ】部門


①「ゴジラ(1954)」


「あのゴジラが、最後の一匹とは思えない。」

≪基本データ≫
1954(昭和29)年11月3日上映 (併映:仇討珍剣法)
配給:東宝
観客動員数:961万人
製作:田中友幸
音楽:伊福部昭
特殊技術:圓谷英二(円谷英二)
監督:本多猪四郎

≪あらすじ≫

事件は一艘の貨物船の沈没事故から始まった…。救助に向かった船もまた炎上・沈没。大戸島に流れ着いた生存者は恐る恐る『巨大な怪物に襲われた】と語る。そして嵐の夜、その巨大な怪物は大戸島に現れ暴れまわった。

山根博士らは政府の命を受け災害調査団を結成し、大戸島へと向かう。博士の前にも姿を現した巨大怪物は、大戸島の伝説からゴジラと名づけられる。ゴジラは度重なる水爆実験により住処を追われて現れた怪物であった。一方、山根博士の娘・恵美子はかつての婚約者・芹沢を訪れる。そして、彼の家で悪魔の兵器『オキシジェン・デストロイヤー』の実験を目の当たりにし、驚愕するのだった。 
ゴジラは東京に上陸。放射能火炎により首都東京を火の海と化す。防衛隊の抵抗も効果のないままに、火の海と化した東京の街を背にゴジラは湾へと去っていった。ゴジラによる被災者に触れ悲劇の再来を避けたいと願った恵美子は、尾形に『オキシジェン・デストロイヤー』の存在を明かしてしまう。水中の酸素を一瞬のうちに無くし全ての生命を液化させる魔の兵器…。しかし、あの巨大な怪物を葬るには、この悪魔の薬に手を染めるしかない。兵器化されるのを怖れる芹沢は頑なに『オキシジェン・デストロイヤー』の使用を拒否するのであったが、いつ訪れるとも知れないゴジラによる災害、被災者の姿を見た芹沢は一度だけの使用と決め、東京湾に潜むゴジラに立ち向かっていく…。

≪解説≫

すべてはここから始まった。特撮怪獣映画という狭いジャンルだけでなく、日本映画全般においても抜群の知名度を誇るゴジラシリーズ、その第一作にして最高作である。ハリウッドでも公開され大ヒットとなった。本作があったからこそ、今日の特撮怪獣映画があるのだといっても過言ではないだろう。「特撮」という技術についても、主に戦時中の戦意高揚映画の中で使われ戦後見捨てられかけていた特撮技術の価値が今作によって再認され、解体されかけていた「特殊技術課」が東宝内に再編成されたという経緯がある。そんな有名映画「ゴジラ」であるが、当時の時事として、ビキニ環礁での水爆実験と、第五福竜丸の被爆事件が社会問題となっていたことを受け、これに着想を得た田中氏によって「ビキニ環礁海底に眠る恐竜が、水爆実験の影響で目を覚まし、日本を襲う」という企画が立てられたことに製作が始まる。そんな生い立ちを持つ本作が持つメッセージとは何かを考えてみると、勿論怪獣という架空の巨大生物の魅力というのもあるだろうが、それ以上に「核兵器への恐怖、決して癒えない戦争の傷跡」といったものに注視すべきであろう。作中、ゴジラによる東京襲撃・侵攻ルートがB-29爆撃機の空襲ルートと全く同じという描写や、ゴジラから逃げ遅れた母子が迫りくる恐怖と生命の危機を前に発した「もうすぐお父ちゃんのところに行けるからね」というセリフも印象的である。終戦から9年の歳月を費やし、ようやく戦争の傷跡から立ち直りかけた日本を、当の日本人の記憶に「戦争の忌み子」として色濃く刻みつけられている核兵器より生まれ出でた巨大怪獣が襲い、首都東京を再び焼け野原にする。本作の内包する、単なる娯楽映画としてではなく骨太な社会派映画としての演出は、強烈なインパクトとリアリティを伴い当時の観客に叩き付けられたのではないだろうか。ゴジラ登場時、人々が恐慌し逃げ回るシーンや、襲撃後死傷者で溢れかえる病院の悲惨なシーンなどでもエキストラがしっかりと演技しており、「予知・迎撃手段のない脅威がいきなり都市部に現れたらどうなるか」という、怪獣映画のひとつの命題が明確に的確に、そして凄惨に描かれている。

【リアリティ】部門で紹介した本作だが、潤沢な予算と若き円谷組の意欲と試行錯誤によって実現されたハイクオリティなミニチュアセットや、音響・操演などの工夫など、特撮技術それ自体に関しても素晴らしい出来なので、ぜひ注目してほしい。

以下見どころ

・大戸島にて、ゴジラ出現
よくゴジラ映画の名場面として最初に挙げられるシーン。元々はホラー映画を意識して作られたという本作では、作中序盤から未知なる巨大生物の存在が示唆されるものの、肝心のゴジラは中々姿を現さない。中盤に差し掛かろうかというタイミングで浮かび上がってくる伝説の怪獣「呉爾羅」。登場人物はもとより、スクリーン前の観客も「ゴジラとはなんだろう?」と意識し、実像を各々にイメージしかけたころ、なんの前触れもなく、不意に、大きな足音と共に、あたかも妖怪の類のごとく”それ”が丘の向こうより現れ来るのである。

・オキシジェン・デストロイアーの資料を燃やす芹沢博士
基本的に、怪獣映画において「人間を主体にした人間ドラマ」は本筋ではないと思っている。怪獣映画の主役は怪獣であり、映画に登場する人間とはそれに巻き込まれる有象無象に過ぎない。そのため、怪獣の脅威に翻弄される群像劇、その中でのサブストーリーとしてならばまだしも個人として怪獣を差し置いてメインスポットを当てられる存在であってはならないと考えている。なので、ゴジラと同格あるいはそれを凌駕する人間の主人公を用意し、その内面描写や周囲の人間とのドラマなどが過剰にフューチャーされているミレニアムシリーズや怪獣惑星などの作品は個人的にあまり好みではない。しかしながら、只々怪獣が暴れまわるだけの映画というのも爽快感はさておき映画としての妙味には欠けるわけで、あくまで怪獣の物語に如何にさりげなく、しかし印象的に、非日常的な脅威に直面した人間の苦悩・葛藤を差し込むかというのはリアリティを求める怪獣映画には必要不可欠だ。

「ゴジラ」においてその役割を担っているのが芹沢博士である。戦争によって顔の半分を奪われた博士。さらにその戦争の禍根ともいえるゴジラを葬るため、自らの半生を費やした研究成果を犠牲にすることを強いられた彼の心情描写は言葉少なく、しかしながら強烈に「未曽有の脅威に晒された人間の苦難」を表している。燃え爛れ、死屍累々の惨状となり、恐怖と喪失に耐え切れぬ叫びと嘆きで満たされた東京の街をまざまざと見せつけられ、ついにオキシジェン・デストロイアーの使用を決断、後の世のために関連資料を全て荼毘に伏そうとと手に取った芹沢博士。数秒の間、自身の人生の結晶であるそれらを見つめる博士が何を思ったのか、怪獣映画ファンとしてだけでなく、いち研究者を目指す個人としても強く感情移入した場面である。


②「フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ(1966)」




「第1プラス線よし!第2マイナス線よし!」 「第4マイナス線よーし!」

≪基本データ≫
1966(昭和36)年7月31日上映
配給:東宝
製作:田中友幸、角田健一郎
音楽:伊福部昭
撮影:有川貞昌、富岡素敬
監督助手:中野昭慶
特技監督:円谷英二
監督:本多猪四郎

≪あらすじ≫

嵐の夜、三浦半島沖を航行する漁船・第三海神丸が大ダコに襲撃され沈没した。ただ一人、生き残った男が「仲間は全員、タコに続いて海から現れたフランケン シュタインみたいな怪物に喰われた」と繰り返し、さらに、噛み砕かれ吐き出されたかのような乗組員の衣服が引き上げられたことを受け、海上保安庁はフラン ケンシュタインの研究で有名な京都のスチュワート研究所へ連絡を取った。

スチュワート博士は「研究所で育てられ、1年前に富士で死んだはずのフラ ンケンシュタインが生き返り、漁船を襲ったのではないか」との問いに「仮に生き返ったとしても海にいたり人間を喰うことはあり得ない」とし、サンダと名付けられたこのフランケンシュタインの世話をしていた所員の戸川アケミも「サンダはおとなしく素直だった」として、これらの疑いを全面否定する。

し かし、その後も三浦半島付近では海の怪物による被害が相次ぎ、スチュワート博士とアケミはフランケンシュタインの目撃報告をもとに富士山へ、間宮博士は横須賀へ、それぞれ向かった。果たして引き上げられた漁船からは海棲生物の細胞組織が、また山中では巨大な足跡が発見された。間宮の持ち帰った細胞組織がフランケンシュタインのものと判明した直後、曇天の羽田空港に巨大なフランケンシュタインが出現、人々を襲撃する。

一連の事件がフランケンシュタインによるものと判明し、対策会議に出席するため上京するスチュワート博士とアケミ。博士は山と海とにそれぞれフランケンシュタインがいるのではないかと想像する。会議では強い光や火に弱い海のフランケンシュタインの性質が間宮によって指摘され、市民に灯火要請が出される。その夜、遊覧船を襲ったフランケンシュタインは、ライトを浴びせられ境川から上陸。自衛隊によって太田橋付近の谷川へと誘導され、殺人光線による細胞組織の徹底消滅を図る「L作戦」が実行される。メーサーと放電攻撃によって感電死寸前となる怪物。ところがそこに、さらに巨大なもう一匹のフランケンシュタインが現れ、自衛隊を牽制して海の怪物を連れ去った…。

≪解説≫

設定などは異なるが、前年に公開された怪獣映画『フランケンシュタイン対地底怪獣(バラゴン)』(こちらも後で紹介)の姉妹編、日米合作の特撮映画で、ホラー映画(あるいはSF映画)や小説として著名な「フランケンシュタイン」を特撮映画に持ち込んだ意欲作。「パシフィック・リム」の監督ギレルモ・デル・トロ氏もお気に入りの一品であるという本作が他の怪獣映画に比べ特徴的な点は、 「人間の姿をした巨大怪獣同士が争う」という、着ぐるみを着た怪獣同士のずんぐりむっくりした闘いには見られない柔軟性とスピードに富んだ特撮アクションである。

本作において特にリアリティを感じる要素を挙げるならば、「自衛隊の本気」と「怪獣による人間の捕食」の2点である。まず前者であるが、今作はフランケンシュタインVSフランケンシュタインVS自衛隊といいくらい、怪獣同士の争いの中で人間が単なる被害者としてではなく同じリングに立つ対戦者としてフィーチャーされている。上述の「ゴジラ」で言及 した等身大の人間ドラマは比較的少ないが、一方で本作において人間はただ蹂躙される立場には収まらず、ひたすらに闘争を続ける二体の”フランケンシュタインの怪物”の間に、自衛隊が武力を持って割って入るという構図が取られる。この、自衛隊の面々が怪獣に対し徹底抗戦を取る姿が、本作においては非常に迫力たっぷりに描かれているのである。特にガイラに対するL作戦の準備シーンは見ごたえ抜群。太田橋付近の谷川において、野をかけ山をかけ、川にも飛び込みながら放電装置を設置する自衛隊員の様子はさながら実際の災害出動における作戦行動を行っているように見えた。なお、この自衛隊員は全て俳優を使っているそうで、幹部職には俳優名が当てられているのだが、ヒラの自衛隊員もそうなのだろうか?

そしてもう一つが「人間を食べる怪獣」の描写。怪獣というのは第一に人間にとって本能的な恐怖感を煽る存在でなければならない。そのために巨大かつ狂暴で、都市や町村の建築物を踏み潰し、その暴虐性を剥き出しに人間を蹂躙するのだが、フランケンシュタインの怪物の片割れ、ガイラはなんと「人を喰う」。実際、自分より遥かに大きくて明らかに強暴そうな生物を見たら、人間はまず初めに「喰われるかもしれない」と恐怖するに違いない。本来被食者には成り得ない人間が「喰われる」という原始的恐怖を覚える存在。これもまた怪獣の魅力の一つである。怪獣映画が子供向きなものにシフトしていくにつれてこのような残虐表現はなくなっていったが、昭和初期には、本作をはじめとして「食人シーン」を含んだ怪獣映画は珍しくなかった。それらのうち、最も直截的に「人を喰う怪獣」を描いたのがこの作品におけるガイラである。何より恐ろしいことに、前述したとおりこの怪獣は人型なので、 演出の利点としていきなり走ったりするなど、人間と同じような敏捷な動きが再現できるわけである。人を喰う怪獣が、ゆったりとしたスピードではなく猛ダッシュで迫ってくる・・・というのは想像しただけで背筋が凍る。この本能的恐怖を効果的に演出し、怪獣という存在の根源的な恐怖を印象強く表現できていることが、本作品の優れた点だろう。

以下見どころ

・ガイラの羽田空港襲撃シーン
みんなのトラウマ。何が怖いって、女性を噛み千切るようにムシャムシャする食人シーンもそうだが、日の出を感じ取ったガイラが一目散に海めがけて疾走して去っていくところ。自分を喰おうとしている怪獣が、こんなスピードで向かってきたら絶対逃げられないなと思う。

・自衛隊によるL作戦実行シーン
後々の特撮映画において人間側の主力兵器として活躍する「メーサー殺獣光線車」の初お披露目もこのシーン。「この威力!」。メーサーからのマイクロ波の当たった樹木がなぎ倒されていくさまも、ケレン味のある演出だ。


③「ゴジラ(1984)」「ゴジラVSビオランテ(1989)」



君たちは原子力発電所を襲うゴジラを見て何も感じなかったか?30年前その姿を現すまで、ゴジラは伝説の怪物だった。こうした伝説は世界中の神話に見られる。ゴジラは人類に対する滅びの警鐘だ。-ゴジラ(1984)


兄弟などではない。文字通りの分身だ。同じ細胞で一方は『動物』・・・ 一方は『植物』。-ゴジラVSビオランテ

≪基本データ≫

ゴジラ1984
1984(昭和59)年12月15日 公開
配給:東宝
観客動員数:320万人
製作・原案:田中友幸
特別スタッフ:
竹内均(東京大学名誉教授)
青木日出雄(軍事評論家)
大崎順彦(工学博士)
クライン・ユーベルシュタイン(SF作家)
田原総一朗(ジャーナリスト)
音楽:小六禮次郎
特技監督:中野昭慶
監督:橋本幸治
助監督:大河原孝夫

ゴジラVSビオランテ
1989(平成元)年12月16日公開
配給:東宝
観客動員数:200万人
製作:田中友幸
ゴジラストーリー応募作品「ゴジラ対ビオランテ」 小林晋一郎・作より
音楽:すぎやまこういち
協力:防衛庁
特技監督:川北紘一
脚本・監督:大森一樹

≪あらすじ≫

ゴジラ(1984)
大黒島が噴火してから三ヶ月…第五八幡丸に乗っていた奥村宏は大黒島近辺で巨大な生物を目撃。巨大な生物の影響か、荒波により船は遭難する。翌日、ヨット航行をしていた新聞記者・牧吾郎は第五八幡丸を発見。中には多数のミイラ化した死体が…そして放射能の影響で巨大化したフナムシ(ショッキラ ス)に襲われる牧。間一髪のところを生存していた奥村宏に助けられる。生還した奥村は巨大生物のことを林田教授に相談する。林田教授はゴジラと確信。三か月前の大黒島の噴火によりゴジラが目覚めたのだ。パニックを防ぐため日本政府は報道封鎖。奥村も監禁される。林田教授に会った牧は研究所で奥村宏の妹、尚子に出会う。

太平洋沖にてソ連のミサイル原子力潜水艦が襲撃される。調査に向かったP3C対潜哨戒機が撮影した写真はゴジラそのものであった。緊迫するアメリカ・ソ連間を緩和するため政府はゴジラに関する報道を解禁する。厳戒態勢の中、ついにゴジラは伊浜原子力発電所の核燃料を狙い、静岡県に上陸。原子炉を襲い核燃料を吸収するゴジラ。が、突如渡り鳥とともに立ち去ってしまう。ゴジラのもつ磁性体に気づいた林田は、その帰巣本能を利用した作戦を政府に提案。合成した超音波によるゴジラを三原山へ誘導、三原山を故意に噴火させることで滅するというものだった。

一方、アメリカ、ソ連両国は戦術核によるゴジラ撃滅を要請。三田村首相は、これを拒む。両国が戦術核の使用を諦めたのも間もなく、東京湾にゴジラが出現。パニックに陥る東京。迎撃の準備をする自衛隊。そして三原山では火山噴火を誘発する準備が進められる。ついにゴジラが晴海埠頭に上陸。自衛隊の攻撃もものともしないゴジラ。更に悪いことに、その戦闘の衝撃でソ連の衛星核ミサイルの起動スイッチが起動してしまう…。

ゴジラVSビオランテ
1985年、ゴジラ襲撃から一夜明けた新宿では、自衛隊が廃墟内の残留放射能を検査する一方、ゴジラの体の破片を回収する作業が行なわれていた。その最中、米国のバイオメジャーもG細胞の採取に成功、自衛隊に発見され銃撃戦となる。辛くも逃げ切った彼らだが、サラジア共和国のサラジア・シークレット・サービス工作 員のSSS9によって全員射殺され、G細胞も彼の手に渡る。サラジア共和国に運ばれたG細胞は、白神博士の研究室で小麦などの作物と融合させ、砂漠でも育つ植物を生む実験に使用されていた。しかし、G細胞争奪戦に敗れたバイオメジャーの策略で研究室は爆破され、白神博士はG細胞と共に最愛の娘・英理加を失う。

それから5年後、三原山内において再び活動を開始したゴジラに備え、国土庁はゴジラの体内の核物質を食べるバクテリアを利用した抗核エネルギーバクテリア (ANEB) の必要性を強く認識したが、科学者の桐島は、それが核兵器を無力化する兵器にもなり、世界の軍事バランスを崩す引き金になるのではという危惧を抱いていた。しかし、日に日に活動を活発化させるゴジラに対抗し得るものとして、自衛隊の黒木特佐はその開発のために白神博士の協力を仰ぐ。一度は断った白神だ が、G細胞を1週間借り受けることを条件にANEB開発への協力を承諾する。

数日後、芦ノ湖に巨大なバラのような姿の怪獣が現れる。それは白神が娘の細胞を融合させたバラの命を救うために組み込んだG細胞の影響によって急激な成長を遂げた怪獣ビオランテであった。同じ頃、バイオメジャーによる、ANEBの引渡しを求める脅迫文が首相官邸に届く。応じぬ場合は三原山を爆破させゴジラを復活させるというその内容に、桐島と自衛官の権藤は引渡しに応じるが、SSS9によりANEBは奪われ、さらに爆破された三原山からはゴジラが復活してしまう。

≪解説≫

これらの作品は2つセットで見た方がいいだろうということで、同時に紹介する。ゴジラ1984はゴジラ生誕30周年を冠し、「メカゴジラの逆襲」から9年もの間眠りについていたゴジラの復活と、完全に下火となっていた怪獣映画の隆盛を狙い、構想10年の東宝全社一大プロジェクトとして製作された。ゴジラVSビオランテはその続編であ り、一般公募作品の中からストーリーが選ばれた珍しい例でもある。これらの映画の魅力的な点については、「怖いゴジラへの原点回帰」「ゴジラ対人間の構図」「巨大生物が襲来とその対応を現実的に想定した精確なシミュレーションによるプロット」といったポイントが挙げられる。昭和中期の作品より「子供のヒーロー」としてキャラクター付されてきたゴジラのイメージをバッサリとリセットし、歩くだけでビルを薙ぎ倒し、放射熱線により近代建築をことごとく焼き払いながら有害な放射性物質を振り撒き続ける、人間にとって破壊の権化たる大怪獣ゴジラが、第一作より長い時を経て復活するのである。それに合わせ、ゴジラという怪獣の造形もまた一新されたものとなった。足音は腹の底に響くような重低音、咆哮も初代ゴジラを参考に猛獣のようなうなり声が加わりおどろおどろしい。特に1984のゴジラ(84ゴジラ)の濃い造形は、人間の視点からは何を考えているのか分からない不気味な面構えも相俟って、ゴジラを人間とは相容れない化物として色濃く描写することに成功している。

さて、このような脅威的なゴジラに対し、人間側、特に政治や軍事に携わる人間がどう対応するか。この点を重視した重厚なシリアスストーリーを描くことにより、2つの作品は災害パニックものとして大人の鑑賞に耐えるリアリティを提供しうる。ゴジラ1984では、その当時の時事として米ソの外交関係が悪化した新冷戦の真っただ中であり、有名なペトロフ中佐事件 (1983)の記憶も新しい世相。このような世界情勢が映画の中で色濃く反映されており、当初ゴジラの存在を世間へ公開することを避けた日本政府が、ソ連原潜がゴジラによって撃沈されたことがトリガーとなり米ソ関係が一気に緊迫状態に陥ったことで危急の対応を迫られるシーンや、米ソ政府が日本に対しゴジラへの戦術核の使用を容認するよう迫るシーンなどに時事的な演出が見て取れる。また、ゴジラVSビオランテでは、冷戦終結後、特撮映画製作への関与が解禁された自衛隊の全面協力を得て、実際の演習映像を交えながらゴジラに対する戦略的・戦術的作戦行動がプロットされ、怪獣映画ファンのみならずSF・軍事などの方面からも高い評価を受けた。自衛隊その他さまざまな方面の専門家の協力を得ることで、トンデモ兵器だけではなく、実在する兵器を駆使して人間がゴジラという脅威にどう挑むか、その様子を的確にシミュレーション出来ているといえるだろう。また、VSビオランテでは当時の最先端科学技術であったバ イオテクノロジーを巡る政治的・倫理的問題も扱っており、そういった点からも、この2作はいわゆる「オトナな怪獣映画」として紹介できると思っている。

1984の帰巣本能設定やVSビオランテでの対ゴジラ用兵器としての抗核バクテリアの導入など、ゴジラを超常の神話的存在としてではなくいち生物として特徴づけている点も自分としては面白いと感じている(これについては後述)。この、「生物としてのゴジラ」を描くという試みは、後続の平成VSシリーズにも引き継がれることとなる。

以下見どころ

ゴジラ1984

・三田村首相、渾身の説得
「もし……あなた方の国、アメリカとソ連に、ゴジラが現れたら……その時あなた方は首都ワシントンやモスクワで、ためらわずに核兵器を使える勇気がありますか」
ゴジラへの戦術核の使用を迫る米ソ両政府に対し、時の首相三田村清輝(小林桂樹)が返した言葉。例えゴジラの脅威に晒されようとも、日本に再び核兵器が落とされるようなことがあってはならない。ゴジラの脅威を取り除いたとしても、国そのものが無くなってしまっては人々は立ち直ることが出来ない。一国を率いる長としての覚悟が伺える台詞である。なお、この決意へのより残酷な返答はシン・ゴジラの中で行われることとなる。

・薙ぎ払い放射熱線
怖いゴジラを最も印象的に魅せている場面。映像技術の進歩とともに一気にパワーアップした放射熱線が、湾岸地区に設置された兵器群を自衛隊員もろとも一発で焼き払った映像は、それまでの「子供の味方」「正義のヒーロー」なゴジラのイメージを一気に吹き飛ばし、新時代のゴジラ復活の高らかな狼煙を上げるのである。

・三原山火口に接近するゴジラ
山の上、崖の上などに視点を置き、下からせり上がるようにして歩いてくるゴジラを撮るシーンは多々あるのだが、個人的には1984のこのシーンが一番好きである。小六禮次郎氏の荘厳かつ物悲しい音楽とともに、ゴジラがその結末へと静かに歩み行く…。

ゴジラVSビオランテ

・三原山火口より復活するゴジラ
ゴジラが火山の噴火と共に出現するシーンは「対メカゴジラ」の偽ゴジラ出現シーンを除けば、このVSビオランテとVSモスラのみ(VSモスラでは海底火山に飲み込まれたゴジラがマントルを泳いで(!?)噴火した富士山火口から再出現)。川北紘一監督による膨大な火薬を使った爆発演出は、1989年の映画と言えどCGでは決して真似できない迫力を出している。

・浦賀水道沖海戦
特撮映画における海上戦としてはこれがトップといっていいほどのクオリティ。東宝の誇る巨大特撮用プールにて撮影された、三原山より復活し芦ノ湖へと向かうゴジラと海上護衛艦隊+スーパーX2の海戦。はつゆき・はるな型護衛艦よりゴジラへ向け一斉射される対艦ミサイル群や立ち上る水柱、放射熱線を受け爆発炎上する護衛艦と迫力満点である。

・動く体長120m・体重20万トン
ビオランテはゴジラと戦った怪獣の中でも最重の怪獣である。そんなゴジラをも凌ぐ巨体をもつビオランテであるが、植獣形態では植物でありながら「移動することが可能」で、これを設定だけでなく実際に動かして撮影したシーンがある。着ぐるみにして全高3メートルにもおよびビオランテを、操演に32本のピアノ線を使用、スタッフも20人あまり が動員されて撮影された該当シーンの迫力たるや、劇中でゴジラもたじろぐレベル。ちなみにこれが、特技監督の川北氏の当日の思いつきで動かされることになったわけで、一番驚いたのが現場のスタッフだったとか。


④「ガメラ2~レギオン襲来~」




「我が名はレギオン。我々は大勢であるが故に」

≪基本データ≫

1996(平成8)年7月13日 上映
配給:東宝
観客動員数:120万人
総指揮:徳間康快
脚本:伊藤和典
音楽:大谷幸
特別協力:防衛庁
特技監督:樋口真嗣
監督:金子修介

≪あらすじ≫

ギャ オスとの戦いから1年後の冬。北海道周辺に流星雨が降り注ぎ、その内の一つが支笏湖の北西約1キロ、恵庭岳近くに落下した。直ちに陸上自衛隊第11師団化学防護小隊が出動し、さらに大宮駐屯地からも渡良瀬佑介二等陸佐や花谷一等陸尉たちが調査に派遣される。しかし、懸命の捜索にも関わらず隕石本体は発見で きなかった。一方、緑色のオーロラの調査に訪れ、偶然渡良瀬たちと出会った札幌市青少年科学館の学芸員・穂波碧は、隕石が自力で移動した可能性を示唆す る。それを裏付けるように、近郊ではビール工場のガラス瓶やNTTの光ファイバー網が消失するという怪現象が多発。そしてその発生地点は札幌市に向かい、 少しずつ移動していた。

隕石落下から5日目、ついに事件の元凶が姿を現す。札幌市営地下鉄南北線で電車がトンネル内で謎の生物に襲撃された。更にそれに呼応するかのように、高さ数十メートルの巨大な植物が地中に根を張りながらすすきののデパートを突き破り出現した。怪虫(レギオン)と植物(草体)は流星群と共に外宇宙から飛来したものであり、2つは共生関係にあるものと考えられた。群体は餌としてガラスや土などに含まれるシリコンを喰い、その分解過程で発生した大量の酸素で草体を育てる。穂波は、草体は種子を宇宙に打ち上げて繁殖するものと推測。コンピュータがシミュレー トした草体の爆発力は、札幌を壊滅させるに充分なものであった。草体の爆破準備が進む札幌に、三陸沖より浮上したガメラが飛来、プラズマ火球で草体を粉砕した。しかしその直後、地下からおびただしい数の群体が現れ、見る見るうちにガメラを覆い尽くしていく。小さな群体の攻撃には成す術が無く、ガメ ラは退却する。その後、地下から羽を持つ巨大なレギオンが出現し、夜空に飛び去った。

≪解説≫
リアルな怪獣映画といって真っ先に思い浮かべるのがこの映画「ガメラ2」。自分はガメラ2を「最良の怪獣映画」だと思っている。怪獣映画の教科書といってもいいくらいである。上述したゴジラVSビオランテも、自衛隊の全面協力を得て、怪獣という災害に対し自衛隊がどのような災害出動(あるいは防衛出動)を取るかを精確なシミュレー ションに基づき描いた作品であるが、ガメラ2は更にその上を行くクオリティを誇る。ゴジラシリーズは怪獣対人間、あるいは怪獣対怪獣の闘いを迫力たっぷりに描くことには長けているのだが、実際に怪獣が現れた際、人間側がどう動くか、また一般人のケア(避難誘導やメディアを使った警戒発令など)をどうするかといった細かな描写には欠けているという一面もある。「平成ゴジラシリーズはロマン、平成ガメラシリーズはリアリティ」というコメントをどこかで見かけたことがあるが、平成ガメラシリーズ、特にこのガメラ2は「怪獣」という未曽有の災害に対するプロフェッショナルの対応、そしてそれに巻き込まれる一般人の様子を緻密に描写することに長けている。本作の敵怪獣であるレギオンがすすきのに営巣した際のパニック描写、次に仙台にて営巣が確認された際の迅速な避難警報の発令、そして仙台壊滅後、レギオンの東京進出を阻止するための自衛隊出動要請の閣議決定発表など、本当に細かなところまで「実際に”こういうこと”が起こったら”どう”なるのか」が忠実にシミュレートされている。本編の主人公の一人として、陸上自衛隊大宮駐屯地の渡良瀬佑介二等陸佐を物語の中心に据えているというのもポイント。

また、敵怪獣であるレギオンの設定も凝っている。レギオンの生態はハキリアリやハチといった真社会性昆虫をモチーフとされているが、攻撃性の高いレギオンが最初にビール工場、そして敵性音波に対抗すべくすすきのの地下に侵攻、より暖かな環境を求めて仙台・東京へと進撃していくさまは、レギオンという「生物」を生態学的な見地からこと細かく表現し、オーディエンスにレギオンという「生物」を現実的な視点から観察・理解させ、より映画にリアリティを持たせることに腐心した結果であるといえるだろう。人間からの一切のコミュニケーションを拒否する未知なる生物、それらが群体をなし、なおかつ戦略的・戦術的に迫ってくるという設定は古今東西の怪獣映画では珍しく、どちらかといえばSFやファンタジーに多いだろう。レギオンはそういった意味で幅広いジャンルにおいても非常に良く設定が練りこまれたといえる存在であろう。

そして何よりこのレギオン、カッコいい!マザーレギオンのどこか幾何学的で無機質・金属的なデザインはこれまでの怪獣とは一線を画すデザインであり、その強さもまた、歴代の怪獣の中でもトップクラスの実力を誇っている。自分の一番好きな怪獣でもあるので、ぜひ一度見てほしいと思う。

また、ガメラ2に関わらず、平成ガメラシリーズでは自衛隊がとても強い。ゴジラシリーズでは完全なやられ役・かませ役として扱われる一般兵器群も、ガメラシリーズでは大活躍を見せる(決して怪獣側が弱いというわけでなく)。カッコいい自衛隊・兵器が観たいという人には、ぜひお勧めする。

以下みどころ

・オープニング
「隕石落下地点は、支笏湖の南西約1キロの地点!化防小隊に出動要請!」
雪降る闇夜、異変を機敏に察知した自衛隊、真駒内駐屯地からの迅速な出動シーン、そこから続くオープニングはシリアス怪獣映画の「起」として文句のつけようのない出来である。

・足利最終防衛線構築
スタッフインタビューによれば監督の金子修介氏は、幼少時反戦・反自衛隊主義の家庭で育ったそうだが。そのような経歴の人が、こういう風に戦車の出動シーンを迫力たっぷりに描写できるのだなあと感銘を受けた。戦時における大空襲を経験したことを伺わせる老練の消防隊員の名言など、レギオンとの最終決戦に挑む人々の命がけの覚悟がよく描かれてもいる。シン・ゴジラに負けず劣らずのシーンだろう。

・マイクロ波ウェーブやプラズマ火球などの怪獣の”必殺技”表現
平成ガメラシリーズで特技監督を担った樋口監督は、爆発による炎の演出などに絶大な評価があり、平成ゴジラシリーズにおける川北監督の金粉まみれ火薬まみれのド派手演出や、昭和後期ゴジラシリーズにおける中野爆発(後述)とはまた違った魅力がある。それがよく分かるのが、レギオン最大の武器ともいえるマイクロ波ウェーブで自衛隊の戦車大隊を一撃で薙ぎ払った爆発演出。正に”必殺”の威力を見せつけてくれる。また、レギオンを奇襲したガメラの着地からのプラズマ火球三連発など、怪獣の繰り出す「技」に前作からパワーアップし演出が見られる。


【特撮技術】部門


①空の大怪獣ラドン(1956)



「こちら北原。国籍不明の一機、福岡方面に向かって飛行中。高度2万。進路北北西、超音速!」
「何?音速を超えている!?」

≪基本データ≫

1956(昭和31)年12月26日上映
配給:東宝
製作:田中友幸
音楽:伊福部昭
特技監督:円谷英二
監督:本多猪四郎
原作:黑沼健

≪あらすじ≫

炭鉱技師の河村繁は阿蘇付近の炭鉱に勤務していた。ある日、坑道内で原因不明の出水事故が発生。それに続いて炭鉱夫らが水中に引き込まれ、惨殺死体となって発見される殺人事件が相次ぐ。当初は河村の友人で行方不明の炭鉱夫、五郎が犯人と目されていたが、まるで日本刀で斬られたかのような被害者の傷口に警察も頭を悩ますばかりだった。やがて出現した真犯人は、体長2メートルを超える巨大な古代トンボの幼虫・メガヌロンだった。村に出現したメガヌロンに警官のピストルでは歯が立たず、河村は警察が要請した自衛隊と共にメガヌロンが逃げ込んだ坑道に入る。機関銃によって一旦は怪物を追い詰めるが、発砲の衝撃で落盤が発生、巻き込まれた河村は坑道内に姿を消してしまう。

やがて阿蘇では地震が発生、阿蘇山噴火の前兆かと付近一帯は騒然となる。だが、地震によって出来た陥没口で調査団が発見したものは、落盤事故から奇跡的に生還したものの記憶喪失となっていた河村であった。時を同じくして、航空自衛隊司令部に国籍不明の超音速飛行物体が報告された。確認に向かった自衛隊の戦闘機を叩き落とした飛行物体は、さらに東アジア各地にも出現、各国の航空業界を混乱に陥れていた。一方、阿蘇高原では家畜の失踪が相次ぎ、散策していたカップルが行方不明になる事件が起きた。若い恋人の心中かと思われていたが、彼らが残したカメラのフィルムには鳥の翼のような謎の影が映っていた。

入院していた河村の記憶は戻らないままだったが、恋人キヨの飼っていた文鳥の卵の孵化を見たことをきっかけに、失われていた恐ろしい記憶が甦る。落盤で坑道の奥に閉じ込められた彼が見たものは、地底の大空洞で卵から孵化し、メガヌロンをついばむ巨大な生物だった。柏木久一郎博士の調査団に同行して阿蘇に赴いた河村の眼前で、古代翼竜の大怪獣ラドンがはばたいた。

≪解説≫

東宝初のカラー怪獣映画。原作者の黒沼健は日本におけるオカルトライターの草分けでもあり、本作でも自衛隊機が国籍不明機を追跡する場面では米国の有名なUFO事件のマンテル大尉事件がヒントにされている。原作者がオカルトライターということもあって、この「空の大怪獣ラドン」は他の怪獣映画と比べてホラーテイストの強い作品である。メインタイトルから伊福部昭のおどろおどろしい音楽とともに始まるこの映画では、かの有名な「ゴジラ」のように主役怪獣であるラドンが物語の1/3ほどが進むまで中々現れない。その代わりに物語の序盤ではラドンの餌となる巨大昆虫「メガヌロン」と人間のやりとりが描かれることになるが、このメガヌロンパートが本当に怖い。ラドンの餌といってもメガヌロンは人間の二回り以上も大きい獰猛な肉食巨大昆虫である。こいつが炭鉱で働く人間を次々と惨殺していく過程は、これまたかの有名な洋画「エイリアン」に似たものを感じさせる。水没した炭鉱にて、水中に潜むメガヌロンが「きゅるきゅるきゅる」という独特の活動音とともに人間に迫り獲物を静かに引きずり込む、かと思えば民家襲撃シーンでは主人公の目前に突然メガヌロンが妖怪の如く現れ、銃撃をものともせず警備隊数名を掻っ捌くのである。まるで映画の前座には見えない、「大昆虫メガヌロン」でもいいんじゃないかと思うような作りこみである。また、主役怪獣であるラドンの登場についてもかなり引っ張った演出がなされている。空自哨戒機をソニックブームで真っ二つにしたり、阿蘇山で写真撮影中のアベックを捕食したりしながらもラドンは人間側に決定的な全容を現さない。こういった”焦らし”が「メガヌロンとは別の、もっと巨大な何かがいる」という不気味な予感を助長させることに成功しているといえよう。

さて、それらこれらを経てようやくの大怪獣ラドン登場後は、この映画の主な見どころである円谷英二氏によるハイクオリティな特撮シーンの連続。「ラドン」における特撮技術の特徴的なポイントは、優れたピアノ線技術によるラドンやミニチュア戦闘機の操演と、精巧なジオラマセットにより再現された佐世保区西海橋および福岡市天神区の破壊シーンである。前者のピアノ線操作では特に真昼の青空を背景にしてピアノ線で操作されたミニチュア機からロケット弾を発射する「ミニチュアを飛ばしながら発砲させる」という当時では斬新な技法をはじめ、西海橋下の渦潮からラドンが飛翔するシーンや岩田屋屋上にとまっていたラドンが飛び立つシーンでの着ぐるみごとスーツアクターをピアノ線で吊り下げるような大胆なワイヤーアクションが特徴的。また、ラドンが衝撃波で西海橋を叩き折り、羽ばたきによる風圧で大都市の建造物を薙ぎ倒すシーンでは精巧なミニチュアによる破壊表現が味を出す。特に天神区に墜落したラドンと戦車隊との陸上戦闘では、民家の瓦一枚一枚に至るまで丁寧にミニチュアが製作されており、それらが風圧により実際に吹き飛ぶ描写はミニチュア特撮の妙味といえるだろう。電柱が倒れる時には漏電により青白い火花が飛び散るなど、本当に細かいところまで描いている。このような丁寧かつ精巧かつ大胆な表現が後の特撮怪獣映画にも大きな影響を及ぼしたことを考えると、その先駆けとなった「ラドン」は是非観ておくべきだろう。ちなみに西海橋は前年完成したばかりで、この映画の公開後ご当地を訪れる観光客が増え、以後の怪獣映画ではロケ地として完成間もない注目の新ランドマークが宣伝も兼ねて怪獣に破壊されるという伝統の興りとなった。

以下見どころ

・ラドン追跡シーンとF-86Fセイバーとラドンとのドッグファイト

特技監督の円谷英二氏はもともとはパイロットだったということもあり、空を飛ぶ大怪獣ラドンとF-86Fジェット戦闘機との戦闘シーンは1956年当時の特撮技術と今を比較しても古臭さを感じさせないほど躍動感とスピード感のある仕上がりである。これは上述した見事なピアノ線操演によるものだが、その一方で、当時の特撮技術にも限界を如何に補いダイナミックな空戦を魅せるという工夫も随所に見て取れる。特徴的なのは、物語中盤、空自の哨戒機が謎の飛行物体(=ラドン)を追跡する、というシーンだろう。正体不明の巨大な飛行物体と空自戦闘機とのチェイスはそれぞれの出す航跡雲を地上から見上げるような、「何が飛んでいるのか」直接的な描写を避けた演出となっている。しかしながら、異常な速度で自衛隊機に迫る巨大な航跡と伊福部昭による序盤のホラーテイストとは一転したアップテンポな楽曲により、大空に舞う尋常ならざる脅威の出現を強く印象付けるシーンである。

・阿蘇山噴火

阿蘇山噴火のシーンではミニチュアセットの上で溶けた鉄を流すという危険な撮影手法が取られ、特撮スタジオは大変な暑さとなった。偶然にもこの高温が、ラドンの命の糸ともいえるワイヤーを焼き切り、本映画の壮絶なラストシーンを作り出したのである。事故にも構わずカメラを止めなかった円谷監督。氏の見た情景、作り物であった筈の怪獣が最期に見せた「命」の叫びをぜひその目で確かめて欲しい。


②フランケンシュタイン対地底怪獣(1965)



「フランケンシュタインは死んだのかしら」
「いや、彼は永遠の生命を持ってる。いつかはどこかに出てくると思う…」

≪基本データ≫

1965(昭和40)年8月8日上映
英語タイトル:FRANKENSTEIN CONQUERS THE WORLD
配給:東宝
製作:田中友幸
音楽:伊福部昭
撮影:有川貞昌
監督助手:中野昭慶
特技監督:円谷英二
監督:本多猪四郎

≪あらすじ≫

第2次世界大戦末期、陥落寸前のドイツベルリンのリーゼンドルフ博士の研究室から、ナチによってはるばる日本に「あるもの」が運ばれ、Uボートを犠牲にしてまで広島の「広島衛戍病院」に移送された。いぶかる移送責任者の河井大尉の質問に対し、軍医長はそれが「フランケンシュタイン博士の創造した不死の心臓である」と説明する。しかしそれは直後に米軍によって投下された原子爆弾の爆発で消滅したかと思われた。

それから時は流れ、15年後の1960年。広島県のある住宅の飼い犬が何者かによって殺害され、ある小学校で兎のバラバラ死体が発見される事件が発生。また、激しく雨が降る晩、謎の浮浪児がタクシーに轢き逃げされた。数日後、宮島周辺に徘徊していたこの浮浪児が、「国際放射線医学研究所」のボーエン博士と助手の戸上季子(すえこ)達に保護された。少年は白人種であり、短期の内に急成長して20メートルに及ぶ巨人となっていく。その知能は低く、行動に予測がつかないため始末に困ったボーエンらは鉄格子付きの特別室で彼の手首を鎖でつなぎ、「飼育」することとなる。季子は彼を「坊や」と呼んで愛情を寄せるのだった。

時同じくして、秋田の油田を襲った地震の最中、巨大な怪獣らしきものが目撃される。中生代の終わりに地下にもぐって大絶滅を切り抜けた恐竜バラナスドラゴン=バラゴンであった。現在は秋田油田で技師を務めており、この場に居合わせていた河井は、国際放射線医学研究所のニュースを聞いて、巨人が敗戦直前に日本に運ばれたもの、すなわち、「フランケンシュタイン」の不死の心臓が人間の形を取ったものではないかとの思いを強める。

やがて成長したフランケンシュタインはマスコミの格好の題材となり、取材が殺到することとなる。ドイツから帰国した川地は「坊や」の手を切り落とすことを決意、独り特別室へと向かう。しかし、檻の前では「興奮するから光をあてないで」との川地の指示を無視して、テレビスタッフが横暴にも照明を向けてしまった。ついに暴れ出して研究所を脱走すフランケンシュタイン。

脱走した彼は、闇にまぎれて広島から岡山、姫路、琵琶湖を経て東走、ついに故郷ドイツに気候の近い、日本アルプス周辺へと北上する。同じくしてバラゴンが白根山近辺で起こしている謎の災害と人間消失に、世間はフランケンシュタインが人間を襲い、喰っているのではないかと疑い始める。こうして自衛隊の出動などの強硬策が実施され、ついに石切現場でフランケンシュタインを発見、政府は一連の事件がフランケンシュタインの仕業であると断定、これを葬り去ることを決議する。

≪解説≫

フランケンシュタイン対地底怪獣(バラゴン)は、東宝が海外資本との提携によって怪獣映画の新機軸を模索した意欲作で、怪獣映画としては初めての日米合作である。本多監督による、1931年版『フランケンシュタイン』をもとにしたストーリー・本編演出が光る作品である。「人間のようで人間でないもの」として生まれたフランケンシュタインそれ自身の悲哀や否応なく生じる周囲との軋轢などのシリアス面と、一方で人間に育てられた故のフランケンシュタインの「人間臭さ」(例えば猪を落とし穴でとらえようとするシーンなど)をはじめとしたユーモアの両立など、フランケンシュタインという人型の化物を主役に据えることで、他の怪獣映画にはないドラマがこの映画には込められている。

注目するべきものは他にもある。「円谷英二のミニチュアワークに対するこだわり」である。「ゴジラの逆襲」「ラドン」「モスラ」での大都市をターゲットとしたジオラマセットなど、他作品でもその技術の精巧さを窺い知ることが出来る円谷監督のミニチュアワークスだが、本作品では登場する怪獣のサイズがゴジラの半分近い20メートル前後の設定にされていたこともあり、ミニチュアの縮尺も1/6、1/15(ゴジラ映画などでは1/25)で作られ、その結果細部まで拘り抜いたミニチュアセットが構築されている。それが特に映えるのが、地底怪獣バラゴンによる白根ヒュッテ襲撃シーンだ。崖に突如として巨大な穴が開き、そこから躍り出るように現出しヒュッテの数々を蹂躙するバラゴンの恐怖は、合成技術による逃げ惑うエキストラとの対比も加わり、まるで本物の家屋が20m級の巨大生物によって破壊されているような印象を受けた。”現実の見立て”として現代においても決して見劣りしない高品質なミニチュアワークスを楽しむことが出来る。

また、ミニチュアの精巧さ以外にも、「ミニチュアを使って映像表現をする」ということにも細かなこだわりを見ることが出来る。フランケンシュタインの狩りの対象となる野生のイノシシや、バラゴンに襲われる馬などは、リアルな映像との合成ではなくわざわざミニチュアが作成されている。「こういうのはミニチュアでやったほうがいいんだ」というのは円谷氏の言葉。実写合成を効果的に使ったリアルへの投影とは異なる、ミニチュアによる映像表現の別の「味」を感じられるシーンである。

以下見どころ

・冒頭のドイツ空襲、Uボート、バラゴンによる白根山のヒュッテ襲撃
円谷英二氏によるミニチュアワークスの真髄が大いに楽しめるシーン。

・動く「切り離されたフランケンシュタインの手」
これもミニチュアワークスのこだわりの一環として生み出されたものか。子供の時見たときは自分の幼さもあり、人工物とはいえモゾモゾと動く巨大な手に軽くトラウマを覚えたものである。

・自衛隊に追われながらも晩御飯のイノシシを落とし穴で捕らえようとするフランケンシュタイン
人知を超えた異形として生み出された他の怪獣とは異なる、人間の姿を持ち、人間として育てられた経緯をもつフランケンシュタインだからこそ持ち得る「怪獣らしからぬユーモア」を感じるシーンである。大いなる太古の脅威としてのバラゴンとの対比として、本作のフランケンシュタインは人間界にも自然界にも純粋に混ざれないアンバランスで不器用な存在として描かれているが、それでも彼は一個の生命としてそこに在るのだということも感じ取れるだろう。

・異なる2つのエンディング
実はこの映画、米国公開版と国内公開版ではエンディングが異なる。どちらもストーリーとしては大きな違いがないものの、特に米国公開版のエンディングはそれまでの展開から何の脈略も無く出現する”アイツ”のおかげでいい意味でも悪い意味でもインパクトのあるラストになっている。


③ゴジラ対メカゴジラ(1974)




「ゴジラめ、メカゴジラがお前と同じ性能だと思ったら大間違いだぞ!」



≪基本データ≫

1974(昭和49)年3月21日 上映
配給:東宝
観客動員数:133万人
製作:田中友幸
音楽:佐藤勝
監督助手:川北紘一
特技監督:中野昭慶
監督:福田純

≪あらすじ≫

沖縄海洋博会場建設技師の清水敬介は、弟・正彦と安豆味城跡を訪れる。そこで観光客を相手に伝統歌謡・仲里節を実演していた国頭那美(くにがみ なみ)は、怪獣が街を焼き払う啓示を受けて倒れた。続いて沖縄玉泉洞を訪ねた正彦は、洞内で不思議な金属を発見する。一方、会場予定地の建設現場で、壁画が描かれた洞穴が発見された。首里大学の考古学者・金城冴子(かなぐすく さえこ)は、壁画から「大空に黒い山が現れる時、大いなる怪獣が現れ、この世を滅ぼさんとする。しかし赤い月が沈み、西から日が昇る時、2頭の怪獣が現れ人々を救う」という予言を読み解いた。冴子は敬介とこの洞穴内に安置されていたシーサーの置物を携えて東京へ飛び、冴子の叔父である城北大学の考古学の権威・和倉博士の元を訪れるが、その途中、飛行機内で「黒い山のような雲」を目撃する。その頃、正彦は玉泉洞で拾った金属片を物理学の権威である宮島博士の元へ持ち込む。宮島博士はこれを地球上に存在しない宇宙金属・スペース・チタニウムであると断定した。

時を同じくして、富士山が噴火して巨大な岩石が飛び出し、その中からゴジラが出現。しかし鳴き声が違う上に、盟友であるはずのアンギラスを攻撃して撃退してしまう。

ゴジラは東京湾で石油コンビナートを襲撃し、黄色い放射火炎を吐いてコンビナート地帯を破壊する。このときゴジラの前に、工場の建物の中からもう1頭のゴジラが出現した。敬介たちの目の前で、激しい激突の中、先に現れたゴジラの皮膚が破けて下から金属部分が露出した。宮島博士はこれを見て、これが全身宇宙金属でできたサイボーグ、メカゴジラであると看破した。見る間に「にせゴジラ」の皮膚は燃え落ち、全身白銀色に光り輝くロボット怪獣メカゴジラが現れた。

≪解説≫

『中野爆発』。この映画を語るにおいてこれ以外の単語は必要ないといっても大袈裟ではない。有名作「日本沈没」をはじめとし、火薬を多様・多量に用いた過激ともいえる爆発シーンから「爆破の中野」という異名でも呼ばれる中野昭慶・三代目東宝特技監督の演出は、特撮映画好きならば必見。メカゴジラ出現シーンでの火山の爆発、東京湾石油コンビナートでのゴジラ対メカゴジラの会戦。沖縄でのキングシーサーも交えた決戦など、怪獣が暴れるところにこれでもかこれでもか火薬を使い大爆発を起こしている。スタジオが火事になったほどだというのだから、当時の撮影状況は凄まじい様相を呈していたに違いないだろう。また、自身で「シネマスコープ大好きおじさん」と称するだけあって、中野監督はシネマスコープ(画面アスペクト比12:5、アナモルフィック・レンズを使用して左右を圧縮し1.37:1の横縦比でフィルムに記録する技法)での映像の見せ方にもこだわりをもっている。キングシーサーとゴジラの2体に挟み撃ちされたメカゴジラが、首を180度反転させ、正対するゴジラにはミサイル攻撃、背後のキングシーサーには目からのスペースビームを撃ちそれぞれを一掃するシーンは、シネマスコープならではの構図に中野爆発が合わさり、正に無敵の機械怪獣の貫禄を見せつけるのである。

メカゴジラというこれまでのゴジラの敵と一線を画すロボット怪獣との闘争を、ド派手な爆発によって迫力たっぷりに演出したという点において、この映画は後に続く平成ゴジラシリーズにも劣らないスペックを持っている。また、本作とその続編「メカゴジラの逆襲」ではサスペンス性を重視したシリアスなシナリオが展開され、迷走気味であった昭和後期ゴジラ映画の中では比較的大人向けな製作がされている。



以下みどころ

・石油コンビナート破壊シーン
シネマスコープのパノラマに色とりどりの爆炎が巻き上がり、轟音が轟く。その火中で闘う2体のゴジラ。物語の冒頭から容赦のない中野爆発の炸裂。CGでは出せない、正に「リアル」な爆発だ。

・元祖『オールウェポン』
ゴジラとキングシーサーにとどめを刺すため、目・口・両腕部・両脚部よりビームやミサイルをとんでもない密度で繰り出すメカゴジラ。佐藤勝の軽快な音楽とともに、これでもかこれでもかと火薬を多用し煌びやかな弾幕が展開され、全てを消し飛ばすかのような猛攻にさしものゴジラもたじろぐ。まさに「オールウェポン」という概念を体現したと言うにふさわしい存在であることが分かるだろう。


④ガメラ~大怪獣空中決戦~(1995)、ガメラ3~邪神覚醒~(1999)




最後の希望・ガメラ、時の揺りかごに託す。災いの影・ギャオスと共に目覚めん。




わたしはガメラを許さない


≪基本データ≫

ガメラ~大怪獣空中決戦~

1995(平成7)年3月11日 上映
配給:東宝
観客動員数:80万人
総指揮:徳間康快
製作代表:加藤博之、漆戸靖治、大野茂
製作:池田哲也、萩原敏雄、澤田初日子
脚本:伊藤和典
音楽:大谷幸
特別協力:
防衛庁
海上保安庁
特技監督:樋口真嗣
監督:金子修介
製作:大映

ガメラ3~邪神覚醒~

1999(平成11)年3月6日 上映

配給:東宝
観客動員数:100万人
総指揮:徳間康快
製作代表:加藤博之、石川一彦、小野清司、鶴田尚正
脚本:伊藤和典、金子修介
音楽:大谷幸
特別協力:
防衛庁
JR西日本
京都駅ビル開発
特技監督:樋口真嗣
監督:金子修介
製作:大映

≪あらすじ≫

ガメラ~大怪獣空中決戦~

太平洋上に謎の巨大漂流環礁が発見された。その環礁は黒潮の流れに乗って、だんだん日本に近づいているという。保険会社の草薙と海上保安庁の米森は環礁の調査に乗り出し、環礁の上で不思議な石版と大量の勾玉を発見する。さらに、この環礁が生物であるということが明らかになる。同じ頃、九州の五島列島・姫神島で、島民が「鳥!」という無線を最後に消息を絶つという事件が発生。調査に呼ばれた鳥類学者の長峰はそこで、島民を喰らった巨大な怪鳥を発見する。

政府は貴重な生物であるとして怪鳥の捕獲を決定し、福岡ドームに怪鳥を誘い込む作戦を決行する。その時、博多湾にあの環礁=巨大生物が上陸。怪鳥の1匹を倒し、周りの建物を破壊しながら、ドームに向かって行く。予期せぬ事態に周囲は大混乱に陥り、その隙を突いた怪鳥は自らを閉じ込めていた鉄格子を強力な光線で切断して脱出する。巨大生物も円盤のような姿となって、怪鳥を追って飛び去っていった。

ガメラ3~邪神覚醒~

ギャオスとの戦いから4年、レギオンとの戦い(ガメラ2)から3年後の1999年。ガメラがレギオンを倒すために地球の生態系を循環する生命エネルギー「マナ」を大量に消費したことで地球環境のバランスが大きく崩れ、人間を捕食する殺戮生命体ギャオスが世界各地で大量発生し世界規模で急速に被害が拡大していた。

4年前の東京でのガメラとギャオスの戦いの巻き添えで両親を失った比良坂綾奈と弟の悟は、奈良県高市郡南明日香村に住む親戚の日野原家に引き取られていた。綾奈の心は両親の仇ガメラへの激しい憎悪の念に満ちていた。ある日、綾奈は悟をよそ者扱いをしていじめる同級生の3人組を止めるため、守部家の敷地内の沢に在る古くから「柳星張(りゅうせいちょう)」が眠ると伝えられている祠の奥にある洞窟へ、度胸試しのごとく言われるがままに入り込み、その中で奇妙な卵状の物体を見つける。

ある週末の夜、東京渋谷上空に2体のギャオスが飛来、それを追ってきたガメラとの壮絶な市街戦が展開される。ガメラがギャオスを撃破し戦いは終結するが、戦場となった渋谷はプラズマ火球により甚大な被害を受け、1万人を超える犠牲者が出てしまう。これを機に日本政府及び世論はギャオス以上にガメラを危険視する方向にシフトしていく。そして、ニュースで壊滅した渋谷から飛び去るガメラを見た綾奈は改めてガメラへの憎悪を強くする。

ガメラが渋谷でギャオスを爆殺した同時刻、その断末魔の叫びに応えるかの様に綾奈が洞窟で見つけた卵状の物体から奇妙な生物が生まれた。綾奈はその生物にかつて飼っていた愛猫の名前である「イリス」という名前を付け、いつか両親の仇ガメラを殺してくれることを願って密かに育て始める。だが、イリスは守部家に代々伝えられる「復活すればこの世は滅びる」と恐れられる災厄だった。綾奈の憎悪を糧に急速に成長したイリスは綾奈を繭に自身ごと包み込む。直後に駆けつけた守部家の長男・龍成が救出するものの綾奈は意識不明になり、イリスも姿を消した。

≪解説≫

「特撮技術」の項目について、最後に紹介するのが平成ガメラシリーズの第1作と第3作、ガメラ~大怪獣空中決戦~とガメラ3~邪神覚醒~である。本当は第2作であるガメラ2~レギオン襲来~と合わせて紹介するべきだと思うが、ガメラ2のリアリティの高さ故、あちらは別枠で先に紹介することとなった。金子修介監督によるこれら一連の三部作は「平成ガメラシリーズ」と呼ばれるが、いずれの作品も質の良い特撮を提供しており、本格怪獣映画としての評価が非常に高い。1日におよそ2カットという超スローペースで撮影が行われたらしく、細かな部分まで計算され大事に大事に撮られたであろう各シーンには、ほかの怪獣映画に少なからず見られる「甘さ」が見られない。ある意味安心して視聴することができる映画である、といってもいいだろう。先に紹介した「ゴジラ対メカゴジラ」や「平成ゴジラシリーズ」に特徴的な派手な演出は控えられ、精巧なミニチュアワークスと計算されたアングルによる硬派な破壊描写が光る。怪獣の重量感やパワーを迫力たっぷりに魅せる点ではゴジラシリーズに引けを取る面はあるものの、特撮技術の緻密さでは平成ガメラシリーズは一歩抜きん出ていると評価できるだろう。

平成ガメラシリーズはそもそも、「王道の怪獣映画を作りたい」というモチベーションのもとで製作された映画である。その意気込みはやはりシリーズ第1作目であるガメラ~大怪獣空中決戦~において最も強く感じ取ることができる。特に「樋口組」と呼ばれる特撮班の、「これまでの怪獣映画で不満に思っていたことを、このガメラで徹底的にぶちまけてやろう」という熱意は並々ならぬものがあったようで、撮影シーンの随所に”ホンモノの怪獣映画”を作るための様々な工夫が込められている。例えば怪獣を映すカメラの角度。本作では徹底して人間の視点から見上げるような角度で怪獣が撮られており、安易な俯瞰視点で怪獣の巨大感を損なわせないようにしている。このように、特撮シーンの1カット1カットごとに「怪獣を撮るとはどういうことか」という命題に真摯に向き合ったスタッフの努力が伺える。

また、実写合成技術及び最新鋭のデジタル合成技術の運用という試みにも注目したい。オプチカル合成が主に使用されていた1作目から4年間を経て、最終作ガメラ3では最新鋭のCG技術・実写合成技術が惜しみなく投入され、従来の怪獣映画とは一線を画す視覚効果を与えてくれる。平成ガメラシリーズは映像技術の発展とともに進化してきた作品であるともいえるだろう。ガメラ3はその進化の一つの頂点である。冒頭のガメラ・ギャオスによる渋谷襲撃シーンでは、本編実写との「境目」を見せない巧みな合成により、怪獣が突如市街地に現れ人々を蹂躙する恐怖を現実感たっぷりに描いている。また、ガメラやイリスのアクションにCGを多用することで、紀伊半島沖の自衛隊F-15・イリス・ガメラによるスピーディな空中戦闘の映像化を実現した。1999年の映画と侮るなかれ、当時のCG技術の限界を正確に把握し、光源や雲海によるボカシを巧みに用いることで「CGの安っぽさ」を消し、2019年の今においても通用するハイレベルな特撮映像に仕上げている。また一方で、京都古都の街並みや京都駅内部の精巧なミニチュアセットを組み、その中で着ぐるみの怪獣を使った撮影を行うという日本特撮怪獣映画の伝統的な手法も取られている。第一作から続くアングルの徹底も抜かりはない。古きも新しきも、あらゆる特撮技術を効果的に組み合わせ、最高峰の特撮映像を練り上げたのがガメラ3なのである。

人間側の役者の演技が少し残念なところもあるが、それを差し引いてあまりあるほどの魅力を平成ガメラシリーズは備えている。最高レベルの特撮技術、迫力満点でカッコいい怪獣描写など、特撮怪獣映画はここまで凄い映像を作れるのだ、ということをガメラシリーズを通して感じてもらえればと思う。

以下見どころ

ガメラ~大怪獣空中決戦~

・夕焼けに映える東京タワーとギャオス
折れた東京タワーに巣作りをするギャオス、襲撃を受けた首都東京の全景と美麗な夕焼け空とのコントラスト。特撮班のスタッフが猛暑の中、一日中タイミングを待って撮影されたという該当シーンは、特撮映画の中でも1,2を争う美しさである。

ガメラ3~邪神覚醒~

・タブーに挑戦した渋谷襲撃シーン
特に平成以降の怪獣映画では、「怪獣が突如として日常の風景に襲来し、何の罪もないそこに生活するだけの人々を蹂躙し虐殺する」ことを直接表現することはタブーとされてきたように思う。最高レベルの特撮技術を携えそのタブーへと挑戦した渋谷襲撃シーンでは、ガメラはただ敵であるギャオスを撃滅するための機械であるかのように、そこに在る人々をまるで意に介さず、ギャオスとともに踏み潰し焼き殺す。そして、それまで人類の味方と見做されてきたガメラという怪獣像は「本質的な脅威」へとグロテスクに変質するのである。このダークな怪獣表現もまたガメラ3のもつ魅力の一つであると個人的には考えている。

・燃える京都、世紀末のクライマックス
ガメラ3が公開された1999年は、来る新世紀への(妙な)期待感と、世紀末に”何か”が起こるという終末論に圧された漠然とした不安が入り混じる奇妙な時代だった。空から大魔王が降りてきて世界の全てを燃やし尽くす…誰もがどこかで聞いたような物語であるが、ガメラ3では我々の良く知る京都の歴史ある街が、空から現れた二体の大怪獣の死闘により地獄の様相に成り果てるのである。物語の結末に待つものは火の海と化した古都、そのカタストロフの中を満身創痍で進む守護神ガメラ、そして迫りくる更なる破局。戦いの終わりと平和の到来を告げる勝利の咆哮は無い。ガメラ3が事実上のシリーズ最終作としてこの結末を迎えたことには賛否両論あるが、個人的には怪獣映画史における世紀末の”ピリオド”として、この上なく相応しいものに思えるのだ。



【ロマン】部門


さて、最後は特撮怪獣映画の【ロマン】について。ここでは、自分にとって怪獣映画の魅力の根幹をなす一番の要素を語りたいと思う。それは、

「【怪獣】という巨大な生き物が【生きている】ことを、どれだけ魅力的に描けているか」

ということである。

思い起こせば懐かしいが、少年時代の当時放映していたウルトラマンパワードで、レッドキング夫婦の片割れ崖から転落死した描写を見て大いに泣いてしまったことがある。あの時は、テレビの中の、現実には存在しない怪獣なのに、まるでそこに生きていた生命が失われてしまったかのような喪失感を子供ながらに感じていたのだろう。そして大人になった今でも、自分にとって怪獣映画が最も魅力的に映るのは、「未知の巨大生物が、確固たるひとつの生命体として、それ自身の生存本能に従い生きているように動いて」いることである。架空の、そして超常の存在である怪獣にも、現実的な「生命の本質」みたいなものがみえる、言い換えれば自分と同じ世界に生きているようにみえる、そういう風にみえるよう、大の大人が一所懸命に工夫をして作り上げた怪獣映画が、自分は大好きである。

先に挙げた作品群の中にもそういう意味での「ロマン」を兼ね備えた作品は多くあるものの、ここではそれらと比べても特に自分が強く「怪獣の生物性」というものに感銘を受けた映画を紹介したいと思う。


①「大怪獣決闘ガメラ対バルゴン(1966)」



​学​の​力​で​は​も​う​、​ど​う​に​も​な​ら​ん​

≪基本データ≫

1966(昭和41)年4月17日 上映(同時上映:大魔神(1966))
配給:大映
製作:永田雅一
脚本:高橋二三
音楽:木下忠司
特撮監督:湯浅憲明
監督:田中重雄

≪あらすじ≫

「大怪獣ガメラ」にて大島から打ち上げられたZプランロケットが宇宙空間で隕石に衝突し、中に閉じ込められていたガメラが脱出。ガメラは地球へと舞い戻り、エネルギーを求めて黒部ダムを破壊した後、噴火した火山に潜伏した。一方、大阪で航空士のライセンスを得たばかりの平田圭介は独立して観光飛行機会社を設立するための元手を集めるため、勤めていた会社を辞めて兄・一郎の計画へと参加した。兄は戦時中にニューギニア奥地の洞窟で発見した巨大なオパールを隠しており、片脚の不自由な彼に代わって仲間の小野寺、川尻と共に「戦死した友人の遺骨収集」を名目にした密輸計画が実行されることになる。

現地に到着した3人は、洞窟へと続くジャングル手前の集落で村人達と暮らしている日本人医師の松下博士から、その洞窟が「虹の谷」と呼ばれる禁忌の魔境と聞かされ、諌められるものの、欲に目のくらんだ一行は強引に突破していく。深いジャングルを進む途中、小野寺が底なし沼に落ちるものの、3人は何とか洞窟へと辿り着きついにオパールを発見した。オパールを前に狂喜乱舞する川尻の脚に毒サソリが上っていたが、小野寺はわざとこれを教えず、川尻がサソリに刺されて悶え死ぬのを見殺しにした。これを機に、強欲な本性を現した小野寺は川尻の死に嘆く圭介ごと洞窟を爆破、1人オパールを携え外国航路の日本船「あわじ丸」で日本へと向かう。日本への途上マラリアと水虫を患った小野寺は、あわじ丸の船医・佐藤の奨めによって赤外線による治療を受ける。しかし、神戸港へ着いた夜に船員から麻雀に誘われ赤外線治療機の電源を切り忘れてしまう。小野寺がベッドの上に隠していたオパールは赤外線を浴びてひび割れ、やがて中から1匹のトカゲのような生物が生まれた。これはオパールではなく、伝説の怪獣「バルゴン」の卵だったのだ。

同じ頃、中国人宝石ブローカーとオパールの商談のため神戸港で密会していた一郎は、突然炎上沈没したあわじ丸を見て弟の圭介の安否を気遣う。一郎に対し、小野寺はニューギニアで圭介が谷に落ちたと嘘をつき、さらには目的のオパールがあわじ丸と共に沈んでしまったと説明する。その時、赤外線によって巨大化したバルゴンが、海面に紫色の体液を噴き上がらせながら神戸港に上陸。港を破壊し、大阪へと東進していった。大阪へとやってきたバルゴンは、冷凍液を使って数々の名所や建築物を凍らせ、関西方面防衛隊を全滅させる。人類は鈴鹿のミサイル基地から攻撃を試みるものの、動物的本能で危険を察したバルゴンはプリズム状の背中のトゲから「悪魔の虹」(殺人虹光線)を放って周囲の人間を焼き尽した。しかし、その光線のもつエネルギーに誘われガメラがバルゴンの元へと飛来。二大怪獣による決闘が繰り広げられることになる。

≪解説≫

怪獣同士の殺し合い。「大怪獣決闘」と謳うタイトルが冠されたこの作品では、ガメラとバルゴンという二大怪獣の血生臭い命の取り合いを見ることが出来る。かたやガメラはバルゴンの持つエネルギーを自らの生命エネルギー源として求め、かたやバルゴンは人間やガメラの攻撃から自身を守るために、それぞれがそれぞれの生存本能に従い衝突するのである。その闘争も極めて生物的で、火炎を吐いたり冷凍液や怪光線を武器として用いるものの、殆どが生身でのどつきあいである。巨大な体躯で相手に突撃し、急所に噛み付いたり、鋭利な爪で眼を抉ったりする。流血表現は他の怪獣映画と比べても強めだろう。怪獣という存在を完全無欠な神のようなものとして終始せず、あくまで生物としてその動向を描いた点が本作の魅力である。昭和ガメラと言えば子供の味方・ヒーローといった印象が強いが、この作品でのガメラにはそのような英雄的なキャラクター性は皆無であり、いうならば只の亀の化物である。

怪獣同士の戦闘のみならず、人間VS怪獣(バルゴン)という構図においても、バルゴンがダイアモンドに惹かれることや、雨が苦手といったことに着目した作戦が展開されるなど、バルゴンという怪獣そのものが持つ生物的特性が重視されている。他にも、バルゴンの持つ冷凍液の脅威を避けるために遠距離攻撃に徹する人間の作戦が、事前に脅威を察知したバルゴンの先制攻撃によって台無しになったり、人間側の作戦によって自傷を負ってしまったバルゴンが、その原因となった行動を二度と行なわなかったり。人類の兵器などものともしない身体スペックに任せてひたすらに暴れ回るような怪獣表現は徹底して避けられている。これにより、ガメラやバルゴンという怪獣を一個の生命体として生々しく、しかし非常に魅力的に表現されているといえよう。しかし、それでも怪獣は超常の存在。人間の科学力ではバルゴンの脅威に対処しきれず、唯一の切り札も最期まで強欲に支配された小野寺の暴走によって失われ、皆が限界と絶望を感じ始める。そんな中、人類の介入すら許さない、ガメラとバルゴンの純粋な殺し合いが始まるのである。我こそが生き残るために…。

また、この作品では前述の小野寺を筆頭とした欲望渦巻く薄汚いダークなヒューマンドラマが展開されるのも特徴である。勧善懲悪の一面はあるものの、それらはあくまで人間にのみ適用されるものである。怪獣はそれそのものの本質に従って生きるのみ、善も悪もない。怪獣の生物性を描く際にはこの点をしっかり押さえることも重要で、そういった観点からもガメラ対バルゴンは一見の価値ありの作品である。

以下見どころ

・ガメラによる黒部ダム襲撃
決壊するダムをミニチュアワークスで表現した映像は初期の怪獣映画とは思えないほどのインパクトである。突然の大怪獣襲来、そして轟音とともに消え去る現代人類の心臓部といえる発電所。それを茫然と眺める職員たちの気持ちになってぜひ観ていただきたい。

・氷点下の大阪城
全てが凍りついた中で初戦を迎えるガメラとバルゴン。全てが静止した白銀の空間で、二大怪獣の最初の殺し合いが始まる。まるで時代劇や仁侠映画を観ているかのようなシーンである。


②「モスラ対ゴジラ(1964)」




「あの黄色い粉は何ですか?」
「モスラの最後の武器です・・・」​



≪基本データ≫

1964(昭和39)年4月29日 上映(同時上映:蟻地獄作戦)
配給:東宝
観客動員数:720万人
製作:田中友幸
脚本:関沢新一
音楽:伊福部昭
特技監督:円谷英二
監督:本多猪四郎

≪あらすじ≫

巨大台風8号が日本を通過した翌日、毎朝新聞の記者である酒井と助手の純子は高潮の被害を受けた倉田浜干拓地で鱗のような物体を見つける。一方、静之浦の海岸には巨大な卵が漂着。ハッピー興業社の熊山は漁民から卵を買い取り、静之浦の海岸に孵化施設を兼ねた「静之浦ハッピーセンター」の建設を始めた。巨大な卵を調査した三浦博士と酒井らだったが、彼らの目の前に小美人が現れる。彼女達によると、巨大な卵はインファント島に唯一残っていたモスラの卵で、卵を失った島の人々は悲しんでいるという。酒井たちは卵を返還するよう抗議活動を始めたが、熊山は応じないどころか、小美人まで売るように言い放つ始末。実は熊山の裏には大興業師・虎畑二郎がついており、抗議活動は頓挫してしまう。

そんな折、酒井と純子は三浦に呼び出され、放射能除去を受ける。実は倉田浜で見つけた物体から放射能が検出されたのだ。調査のため倉田浜に駆け付けた酒井たちの目の前に干拓地からゴジラが出現。ゴジラはそのまま四日市のコンビナート地帯と名古屋市を襲撃・蹂躙した。酒井たちはインファント島に飛び、原住民達にモスラを派遣するよう懇願するが、「悪魔の火」と呼ぶ核実験によって島を荒らされモスラの卵の返還をも拒まれた原住民達と小美人は拒否。しかし、酒井たちの説得を聞き入れたモスラは、寿命が近づく身でありながら日本へと飛び立った。

ゴジラは自衛隊の高圧電流攻撃にもひるまず、トラブルから熊山を射殺してしまった虎畑が滞在するホテルを破壊。虎畑もその際に逃げ遅れて命を落とす。ゴジラが卵の安置されている静之浦に迫った時、モスラが飛来。二大怪獣が激突する。

≪解説≫

モスラ対ゴジラは1961年に公開された映画「モスラ」の続編にあたる作品であり、また1962年公開の「キングコング対ゴジラ」以降、「メジャーどころの怪獣対決路線」という企画が東宝製作会社の中で明確に打ち出された頃の、いわば怪獣映画の黄金時代における作品と言ってもいいだろう。ゴジラとモスラは、いずれも以後の東宝特撮映画においてエース級の目覚ましい活躍を披露する名怪獣であるが、本作以降の両者のキャラクター性には大きな違いが生じる。巨大な蛾の怪獣であるモスラは、「地球の守護神」「正義の味方」「人間の子供達を救うために悪役怪獣と戦うヒーロー」という、明確な「善の怪獣」として映されるのに対し、ゴジラは善も悪も超えた超常的な存在として描かれることが多い。異なる道を歩んでいくこととなる両怪獣であるが、本作においてはそういった「味付け」は薄く、むしろ両者ともに原始的・生物的な側面が比較的強く押し出されているのが特徴的である。

まずゴジラ。モスラ対ゴジラにおけるゴジラ(通称モスゴジ)は、他のゴジラ映画には珍しく「悪役」として描かれているとよく言われるが、個人的には別段そんなことはないと思っている。モスゴジの劇中の行動は決して悪性に依ったものではなく、ゴジラ1954で現れた初代ゴジラと同じく、自身の動物的本能に従った結果である。倉田浜干拓地より出現したゴジラであるが、この個体が「ゴジラの逆襲」「キングコング対ゴジラ」のものと同一個体であったとすると、恐らく長い間眠りについていたのであろうと思われる。「起き抜け」の状態のゴジラは激しく暴れまわることもせず、散策でもするように四日市コンビナートから名古屋市内へと進撃。途中テレビ塔に尻尾が引っ掛かってまごついたり、名古屋城の堀に足を滑らせてあわや転倒したりとコミカルな一面が見られる。永い眠りから醒めた後で寝ぼけ眼であったせいではないだろうか。そして、静之浦へと辿りついたゴジラは自身の体長とさほど変わらないほどの大きさの卵を発見。興味深々に近づき、柵(保護施設)が邪魔だったので壊していると巨大な蛾が飛来、いきなり突風で吹っ飛ばされたかと思うと尻尾を掴まれ引きずり倒され、おまけに毒鱗粉で攻撃されるという始末である。ちなみにこの毒鱗粉、モスラの最後の武器というだけあってかなり強力だったようで、鱗粉を浴びたゴジラの後遺症で次作「三大怪獣地球最大の決戦」まで持ち越されることになる。これではたまったものではないとゴジラも反撃、結果として親モスラを焼き殺してしまうことになるのだが、これら一連の破壊行動の根底に「ゴジラの悪意」があるわけではない。結局のところ、人類側の兵器も含め、ゴジラにとっては目覚ましの散歩を邪魔する厄介者の露払いをした程度の認識でしかないのだろう。この悠々自適とも取れる「余裕」はゴジラの持つ超常的な身体スペックに起因するものだ。強大な力をもつ生物は屈するものが無い故に悠然と闊歩するものである。そういった意味で、モスラ対ゴジラにおけるモスゴジは、自身の強大さ故に自由気ままに振る舞うゴジラという生物を素直に表現した結果であるともいえ、愛すべきキャラクターともいえる。

それに対するモスラ。こちらにはゴジラとは打って変わり、「必死」という言葉がよく似合う。ゴジラ対モスラでは親モスラと子モスラが二度にわたってゴジラと戦うことになるが、どちらの場合もモスラは「人間を救うため」という理由で戦うのではなく、生物としての本能に従い、外敵であるゴジラと死闘を繰り広げることになったのだと自分は感じた。確かに劇中にて人間側の願いを聞き入れモスラがゴジラ迎撃に飛び立つというシーンがあるが、結局のところ、モスラ(ここでは親モスラ)は、自分の卵が危険に晒される可能性があったから残り少ない命を賭してゴジラとの戦いに向かったのではないだろうか。上述のように善の怪獣として描かれることの多いモスラであるが、モスラ対ゴジラにおいては、その聖人菩薩のような善性ではなく、自身の子孫を守るためという一個の生命体としての生存本能に従った行動を取ったように思えてならない。そういった生物的な解釈がすんなり収まるといった点で、自分にとってモスラ対ゴジラという作品におけるモスラの描写は魅力的である。ちなみに、親モスラの死後孵化した子モスラが引き続きゴジラとの戦いに赴くことになるが、これもまた人間を救うためというよりはゴジラによって殺されてしまった親の敵を討つ、という理由に依るものが大きいだろう。敵討ちなんていうとおよそ人間臭い概念であるが、人語を解し、インファント島の原住民と長い間共存できるほどに高い知能レベルを持つモスラならばそのような行動を取ってもおかしくはないのではないとも思う。

本作では、自身のもつ力の強大さ故に何者も恐れず悠然と振る舞うゴジラと、子孫繁栄のために命を賭して抗うモスラという、異なる生物の在り方が二大怪獣によって表現されている点がとても面白い。

余談になってしまうが、モスラ対ゴジラは「オプチカルプリンターの導入により実写と特撮シーンの合成レベルが飛躍的に上がった」最初のゴジラ作品である。名古屋市内で暴れるゴジラなど、実写合成におけるオプチカルプリンターの功績は随所に見て取れるので、そういった点からもこの作品を鑑賞してみて欲しい。

以下見どころ

・静之浦、成虫モスラ対ゴジラの死闘
上述したオプチカルプリンタによる実写合成技術の向上を見て感じることが出来る最も印象的なシーンが倉野浜干拓地でのゴジラ出現と、静之浦の死闘である。特撮映画においては、実写映像の中に違和感なく特撮映像を混ぜ合わせることで、あたかも怪獣が現実の光景に出現したかのように効果的に表現することができる。該当シーンにおける、砂丘で戦う二大怪獣とそれを遠巻きに見守る人間の対比は、以降の特撮映画の実写合成シーンと比べても遜色ない仕上がりである。成虫モスラの操演も生物的で生き生きとしており素晴らしい。羽ばたきごとに極彩色の羽根の先端まで弛む動作が、とても良い。


③「ゴジラVSキングギドラ(1991)」



「前よりも、ずっと大きい…」
「奴はもう一度、我々のために戦ってくれる…」

≪基本データ≫

平成3年(1991)12月14日公開
配給:東宝
観客動員数:270万人
製作:田中友幸
音楽:伊福部昭
特技監督:川北紘一
脚本・監督:大森一樹

協力:

[防衛庁]
長官官房広報課

[陸上自衛隊]
陸上幕僚監部
東部方面航空隊
富士学校
富士教導団
美幌駐屯地

[海上自衛隊]
海上幕僚監部
護衛艦「ひえい」
特務艦「あきづき」
第124航空隊

[航空自衛隊]
航空幕僚監部

≪あらすじ≫

1992年7月、突如東京上空に巨大なUFOが飛来した。後日、富士山麓に着陸したUFOからメッセージが届き、中からウィルソン、グレンチコ、エミーと名乗る3人の人物が姿を現す。彼らの言い分によると自分達は23世紀の地球連邦機関の使者であり、21世紀に復活したゴジラによって日本が壊滅的打撃を被る前に、ゴジラを抹殺する目的でやって来たのだという。彼らはノンフィクションライターである寺沢健一郎が著書『ゴジラ誕生』の中で記した、「ラゴス島に生息していた恐竜が、1954年にビキニ環礁で行われた核実験によりゴジラへと変異した」という仮説に基づき、そこから恐竜を別の場所に移動させてゴジラを誕生させないようにするという計画を立てた。

未来人のエミー、アンドロイドのM11と共に寺沢、三枝未希、大学教授の真崎らも1944年のマーシャル諸島・ラゴス島へと赴き、戦時中の日本軍ラゴス島守備隊をアメリカ軍から救った1頭の恐竜=ゴジラザウルスを目撃する。恐竜は未来人達の手によってベーリング海へと転送され、ゴジラは歴史から完全に抹殺されたものと思われた。しかし、寺沢達が1992年に戻ってくると、ゴジラの消滅と同時に太平洋上にキングギドラが出現していた。その裏には、後に地球一の超大国へと発展し、世界経済を一手に支配することとなる日本の国力を消耗させんとする未来人の策略があった。

未来人にコントロールされたギドラは福岡は壊滅させ、日本全土を次々に蹂躙していく。この危機に対し、かつてラゴス島でゴジラザウルスに救われた帝洋グループ総帥・新堂靖明は、ゴジラを復活させるべく核魚雷を搭載した原子力潜水艦「むさし2号」を秘密裏にゴジラザウルスが転送されたベーリング海へと派遣した。しかし、すでにゴジラザウルスは先の原潜沈没事故で未回収となっていた核廃棄物の影響で怪獣化しており、さらにむさし2号の破壊によって膨大な核エネルギーを吸収した新生ゴジラは、以前よりも遥かに強力な怪獣へと変貌したのだった。

≪解説≫

ゴジラVSキングギドラは、いわゆる川北紘一監督による”平成ゴジラシリーズ”の第一作にあたる作品である(前作のVSビオランテからを平成ゴジラシリーズと呼ぶ場合もある)。「平成ガメラシリーズはリアリティ、平成ゴジラシリーズはロマン」という言葉を上に書いたと思うが、平成ガメラシリーズが特にガメラ2に代表されるように「災害パニック映画」としてのリアリティを追求した作品であったのに対し、平成ゴジラ映画は主にファミリーをターゲットとしたお正月映画として、怪獣同士のド派手な戦いや巨大ロボットなど超兵器の登用など、現実性よりもよりファンタジックでインパクトのあるストーリーや演出がメインとなっている。本作もそういった一連の作品群のハシリとして、またバブル絶頂の時代に作られたエンタテイメント映画として、細かいことはいいんだよ!とばかりの「でかい・重い・派手」の三拍子揃った表現が盛り沢山である。敵怪獣には東宝屈指の名悪役であるキングギドラを据え、高度経済成長の結果巨大化した高層ビル群の存在感に負けないよう怪獣のサイズも100m超にグレードアップ、轟音と呼ぶに相応しい音響効果や川北監督お得意の極彩色の光線と火薬たっぷりの爆発演出により巨大怪獣のパワーバトルを迫力満点に仕上げた特撮シーンに、未来人&タイムトラベルなどSF要素を存分に盛り込んだストーリーなど、本作は娯楽映画としての色を前面に押し出した作品といっていいだろう。1975年の「メカゴジラの逆襲」以来、実に16年ぶりにゴジラ映画に復活した伊福部昭氏による劇中音楽も、本編の迫力に負けず劣らず、どっしりとした躍動感溢れる旋律を提供してくれる。

本作最大の魅力は、「ゴジラという怪獣のルーツを初めて明確に映像化した作品である」という点にあると思う。恐竜の生き残りが水爆実験によって巨大化・凶暴化したという設定のゴジラだが、起源となったその恐竜を「ラゴス島のゴジラザウルス」として本作品にて出演させたことで、ゴジラVSキングギドラひいては平成ゴジラリーズではより生物学的な側面からゴジラという存在に迫ることが出来たといえよう。この点は、のちに紹介するゴジラVSメカゴジラやゴジラVSデストロイアといった作品で顕著にみられる「怪獣という生物が織り成すドラマ」にも深く関わってくる要素でもある。ゴジラという一個の生命が、どのような行動理念で生きているのか、その命の在り様を効果的に描いたという点から自分は平成ゴジラシリーズが大好きなのだが、本作においてもド派手な特撮シーンの中に繊細な「怪獣ドラマ」が織り込まれており、味わい深い。

本作の有名なシーンに新堂会長(元ラゴス島守備隊隊長)と現世に再び蘇ったゴジラが対面するシーンがある。大東亜戦争という人間同士の争いに巻き込まれ、瀕死の重傷を負いながらも自らのテリトリーを守るために戦ったゴジラザウルス、そのある意味「なれの果て」ともいえるゴジラが、過去の戦場に共にあった人間に再び相対し何を思ったのだろうか。ものの本によれば、ゴジラとここまで長く対面した人間はシリーズを通してこの新堂のみであり、直接的ではないにしろ「ゴジラが涙を流す」と取れる類の演出がなされた事も印象的である。本シーンにより、我々は強大な力をもつ超常の存在であるゴジラという怪獣にも垣間見える繊細な情緒に気付かされ、ゴジラの魅力にますます惹かれることとなるだろう。特撮シーンの重厚な演出だけでも十分見ごたえのある本作であるが、上記のような観点からもぜひ楽しんで貰いたい。

以下見どころ

・ラゴス島守備隊撤退前夜
瀕死のゴジラザウルスに敬礼する新堂隊長こと土屋嘉男の演技は圧巻の一言。自分たちを守ってくれた恐竜に恩義を感じながらも島を離れなければならない無念さをよく表現されている。

・ゴジラの網走上陸
歴代のゴジラ上陸シーンでもトップ3には入ると個人的には思っている。伊福部昭氏による重厚かつ堂々とした新世代ゴジラのテーマが響き、新たなゴジラが北海道の大地にその巨躯を現わす。

・網走平原にて、ゴジラVSキングギドラ第一次会戦
それまでのゴジラシリーズにはなかった怪獣同士の重厚なバトル表現はこのシーンから始まる。それまでゴジラとキングギドラが1対1で戦ったことはなかったため、正に平成初の大決闘という趣であり、いったいどちらが勝つのか子供心に身震いした記憶がある。

・新宿副都心にて、最終決戦
数億円という予算をかけて組まれた、ゴジラ映画の中でもトップクラスのクオリティを誇る新宿副都心高層ビル群のミニチュアセット。その中で死闘を繰り広げる二大怪獣。現代の映像作品のように建築物の破壊描写をCGに頼らず、実際に組んだミニチュアを破壊する「一発取り」の特撮シーンにはやはりCGには出せない迫力がある。怪獣同士の死闘を遠巻きに眺める自衛隊の視点や、広大なセットの全景を見渡すような引きの映像など、巧みなカメラアングルにもぜひ注目。


④「ゴジラVSメカゴジラ(1993)」



命あるものとないものの差

≪基本データ≫

1993(平成5)年12月11日公開
配給:東宝
観客動員数:380万人
製作:田中友幸
脚本:三村渉
音楽監督:伊福部昭
特技監督:川北紘一
監督:大河原孝夫

≪あらすじ≫

1992年、立て続けに受けたゴジラ被害に対応すべく国連はG対策センター(U.N.G.C.C:United Nations Godziila Countermeasure Center)、および対ゴジラ部隊Gフォース(G-FORCE)を筑波に設置した。G対策センターは対ゴジラ戦闘マシンの開発計画として、まず1号機ガルーダを試作。しかしガルーダは攻撃力に問題があり、新たに2号機の開発に取り掛かる。まず、海底からメカキングギドラを引き揚げ23世紀のテクノロジーを解析。そして、そこから得られた技術を元に究極の対ゴジラ兵器「メカゴジラ」が完成した。

1994年、ベーリング海のアドノア島で翼竜の化石が見つかった。国立生命科学研究所の古生物学者である大前裕史を中心とした調査隊が出向いたところ、そこには孵化後の卵の殻と孵化していない卵があった。調査隊が卵をテントに持ち込み分析していた折、突如として巨大な翼竜・ラドンが襲来する。逃げ惑う調査員たちに追い討ちをかけるかのごとくベーリング海からゴジラが姿を現し、ラドンと戦い始めた。隙を見てヘリコプターに乗り、島から脱出した調査員たち。持ち帰った卵を京都の国立生命科学研究所に持ち込む。

無類の翼竜好きのGフォース隊員・青木一馬は、卵のことを知って国立生命科学研究所を訪ね、卵を観察していた研究員・五条梓の前で悪戯心から研究室にあった植物の化石を持ち帰ってしまう。G対策センター所属の超能力者・三枝未希は、その植物から奇妙な波動を感じる。さらに、そこから再現された音楽を聴いた卵が突如孵化を始めた。ゴジラザウルスの幼獣が生まれたのだ。

ベビーと名付けられた同族を取り返すためか、ゴジラが四日市に上陸し、Gフォースはメカゴジラの出撃命令を下す。メカゴジラは一度はゴジラを追い詰めるものの、ゴジラはその圧倒的生命力でメカゴジラに逆転勝利する。ゴジラはそのままベビーのいる京都に進撃し国立生命科学研究所を襲うが、地下の細胞保存室に移されていたベビーを感知することは出来ず、寂しげに大阪湾へと去っていった。

ゴジラがベビーを求めていることを察したGフォースは、梓たちの反対を押し切り、ベビーを囮にしてゴジラを誘き出す作戦にでる。だが、空輸コンテナは復活したラドンによって奪取され、千葉の幕張へ降ろされる。そこにゴジラが出現。修理を終えたメカゴジラも出撃し、両者は再び幕張の地で相対する。

≪解説≫

本作は、ゴジラ生誕40周年記念作品であったことや、当時製作が決定されたハリウッド版ゴジラを見据えたこともあり、VSシリーズ最終作の予定で作られた映画である。結局ハリウッド版の製作が遅れたことでこの後VSスペースゴジラ、VSデストロイアと続いていくわけであるが、仮とはいえ最終作、幕張開拓地を忠実に再現した約千平方メートルのミニチュアセットやシリーズ最高の火薬量による特撮シーンなどに加え、ストーリーなどにも最終作を意識した要素がいくつか見られる。何より特筆すべきは冒頭より明確に示される「ゴジラVS人間」の構図であろう。VSメカゴジラとタイトルにあるが、本作品にて登場するメカゴジラは、「ゴジラ対メカゴジラ」や「メカゴジラの逆襲」のような宇宙人の侵略兵器ではなく、人類が23世紀のオーバーテクノロジーを先取りして開発した「対ゴジラ用決戦兵器」としての役割を与えられている。第一作「ゴジラ」において、一人の天才科学者の尊い犠牲によりゴジラに辛くも勝利を収めた人類だが、その後の作品ではゴジラの持つ強大な力に圧倒され辛酸を舐め続けてきた。搦め手を使ってもせいぜいゴジラを氷河や火山の噴火口に閉じ込めるにとどまり、最先端のバイオテクノロジーの成果である抗核バクテリアもゴジラの復活により水の泡と消え、92式メーサー戦車やスーパーX・スーパーX2などの超兵器もゴジラの放射熱線の前に次々と砕け散っていった。そんな人類が、ついにゴジラと同等の力を持つ兵器を作り上げ、ゴジラと真正面のパワー勝負を挑むのである。ある意味最終回に相応しい展開といってもいいだろう。劇中でもG-FORCEの面々は、ゴジラという生物を徹底的に研究し、弱点を調べ上げ、使えるものは何でも使うことで、何としてでもゴジラの生命を絶とうと必死になって戦っている。この、ゴジラや怪獣が大好きな人間にとってはともすれば「人間側が悪役」ともとられかねない演出であるが、実際にゴジラのような怪獣が現れたならば、人類はどんな犠牲を払ってでもこれを排除しにかかるだろう。それほどまでにゴジラの持つ力は強力無比であり、人間とゴジラが共存することは極めて難しい問題なのである。

しかしながら、メカゴジラというスーパーウェポンを手にしゴジラへの徹底抗戦に挑む人類に立ちはだかるのが、「怪獣という生物がもつ本質的な生命力」である。思えばこれまでのゴジラには、自身やその子孫のために命懸けで戦うという描写はあまりなかったように思う。勿論「ゴジラの逆襲」の対アンギラス(初代)だったり、VSキングギドラの網走平原での闘い、またはVSモスラでの太平洋沖でのバトラ幼虫との戦いなど、「外敵を排除するための殺し合い」といえばそれにふさわしい熾烈なバトルは幾つかあったものの、やはりゴジラの力が強大すぎるが故か、いうならばゴジラという怪獣の完全性ゆえに、「生命をかけた戦いをするゴジラ」という印象を抱くことは無かったように思う。自身に立ちはだかる邪魔者を薙ぎ払っているだけ、といえば一番しっくりくるだろうか・・・。

そんなゴジラに、一個の生命として「戦う理由」が与えられたのが本作であり、そのキーパーツとしてゴジラの起源となった恐竜ゴジラザウルスの幼体”ベビーゴジラ”が登場するわけである。ゴジラに近い血縁のものとしては「ゴジラの息子(1967)」などでミニラが登場し、同作ではミニラを巡ってゴジラとカマキラス・クモンガなどが攻防を繰り広げるシーンがあるのだが、子供向けの映画ということもありイマイチ真剣味に欠けた。対して本作ではゴジラは自身の同胞を巡り、卵を求めて上陸したアドノア島では実に25年ぶりに銀幕への復活を果たした翼竜怪獣「ラドン」と、卵から孵ったベビーゴジラを人間の手から取り戻すために日本へ上陸した後は、ゴジラの息の根を止めるべく過去最大の戦力を整えた人類+メカゴジラと対峙する。平成ゴジラシリーズのストーリーを顧みれば、この世に生まれ出でてからずっと孤独に生き、初めて自分に近しいものを見つけたゴジラが、奪われたその存在を取り戻すために強大な力を奮うのである。ゴジラに敵対した人類は、ゴジラという怪獣そのものの持つ力に加え、同胞を守るという、生命としての本質的な力にも抗わなければならないのである。

「命あるものとないものの差」。本作品にて胸中に残るのは、メカゴジラを駆り、怪獣たちのもつ「生命力」に直面したパイロットが不意に漏らすこのセリフである。怪獣は怪獣である前に一個の生物であり、命無き兵器にはない強烈な意思と本能の力が宿っている。ゴジラだけではなくラドンもまた、托卵という性質上ではあるが同胞であるベビーゴジラを助けるため、自身の命を投げ打ってまで戦う。そんな、架空の存在であるはずの怪獣に対する「生命賛美」が強く押し出されることで、平成ゴジラシリーズに共通する「怪獣ドラマ」というテーマは本作品において極限まで昇華されることとなる。過去最大級の爆炎と煌びやかな光線飛び交う特撮演出に挟まれる、そういった繊細かつ神秘的なファクターもまた、本作を通じて怪獣映画の魅力として感じてもらいたい部分である。

以下見どころ

・オープニング
小林清志の流れるようなナレーションと、徐々に明らかになっていく超兵器メカゴジラの全容。そしてタイトルコールと共に始まる伊福部昭氏の荘厳なメインテーマ。歴代怪獣映画の中でも1,2を争う素晴らしいオープニングである。

・表情豊かなゴジラ
平成ゴジラシリーズでは、ゴジラのバストアップシーンで使用するために上半身だけのスーツに機械フレームを入れたメカニカルモデルが導入されている。ゴジラVSキングギドラでの新堂会長と対面するシーンなどで印象的な表情を見せたのもこのモデルであるが、ゴジラの表情表現は、VSメカゴジラのものが一番イキイキしているように思う。自らの放射熱線の直撃にびくともしないメカゴジラへの慄きや、ベビーゴジラに対する慈しみなど、細かな表情変化の演出によりゴジラという怪獣をより身近な生物として感じられるようにしている。

・ベビーゴジラ魂の咆哮、ゴジラ奇跡の復活
あえて詳しくは書かないので、ぜひ自らの目で確かめてほしい。生命の持つ神秘の極致。

・エンディング
自分がゴジラシリーズで一番好きなエンディング。このエンディングのために書き下ろした伊福部昭氏の音楽以上に、「生命賛美」と呼ぶに相応しい力強い旋律をもつ音楽を自分は知らない。


⑤「ゴジラVSデストロイア(1995)」




「これがゴジラの最後の戦いになるかもしれない。」



≪基本データ≫

1995(平成7)年12月9日 公開
配給:東宝
観客動員数:400万人
製作:田中友幸、富山省吾
脚本:大森一樹
音楽監督:伊福部昭
特技監督:川北紘一
監督:大河原孝夫

協力:防衛庁

[長官官房広報課]

[陸上自衛隊]
陸上幕僚監部
東部方面総監部
富士学校
富士教導団
滝ヶ原駐屯地業務隊

[海上自衛隊]
海上幕僚監部

≪あらすじ≫

1996年、バース島が消滅しゴジラとリトルゴジラが姿を消した1か月後、香港に出現したゴジラは赤く発光し、燃えるような赤色熱線を吐きながら香港の町を蹂躙した。バース島消滅は地下の高純度天然ウランが熱水に反応した結果の爆発であり、その影響を受け体内炉心の核エネルギーが不安定になったゴジラはいつ核爆発を起こしてもおかしくない状態であった。同じ頃、東京湾横断道路の工事現場で工事用パイプが溶解するトラブルが相次いで発生。しながわ水族館では魚が突然水に喰われる様に白骨化する怪事件が起きる。その原因は、海底に眠っていた古生代の微小生命体が、かつてゴジラを死滅させたオキシジェン・デストロイヤーによる無酸素環境下で復活し異常進化を遂げ誕生した生物「デストロイア」であった。デストロイアは急速に巨大化し、人間大の大きさとなって警視庁の特殊部隊SUMPを襲い、更には自衛隊の攻撃に対して集合・合体し、40メートルの成長体と化して破壊の限りを尽くす。

一方その頃、御前崎沖にゴジラより小さいゴジラジュニアと呼ぶべき怪獣が出現した。それは、行方不明となっていたリトルゴジラが天然ウランの影響を受け成長した姿であった。バース島を失ったゴジラジュニアは、自らの故郷であるアドノア島へ帰ろうとしていたのだった。

ゴジラは四国電力・伊方発電所を襲撃しようとしたが、自衛隊の秘密兵器「スーパーXIII」の放った冷凍攻撃とカドミウム弾を受け体内の核分裂が制御され始めたため暫しの間眠りにつく。核爆発の危険は去ったが、体内炉心の温度が1200度に達するとメルトダウンすることが新たに判明。地球が灼熱の星と化してしまう危機が再び訪れる。もはやゴジラを倒せるのはオキシジェン・デストロイヤーの再来、デストロイアしかいない。ゴジラとデストロイアを戦わせるため、ゴジラジュニアを囮としてデストロイアに向かわせる作戦が提案される。 ゴジラ最後の戦いが始まろうとしていた…。

≪解説≫

「ゴジラ死す」と銘打たれた平成ゴジラシリーズの総決算にして、40年以上・22作もの作品を紡ぎ続けたゴジラ映画のひとつの終着点。最後に紹介する本作には、これまで自分が拙い文章力で伝えてこようとしてきた怪獣映画の魅力全てが内包されているといっても過言では無い。例えば、群体をなし全ての生物を溶解しながら進撃する、まさに殺戮の権化たる「デストロイア」という怪獣の設定・造型や、その脅威が本格的に明るみに出るまでのホラー的演出は昭和初期から久しく失われた怪獣表現に近いものがある。また、電飾により100kgを超えたスーツや炭酸ガスの噴出というスーツアクターにとって地獄ともいえる装飾によって表現されたバーニングゴジラの様相には、CGでは決して表現できない実在感と重量感が伴っている。こういった怪獣表現以外にも、忠実に再現された有明臨海副都心のミニチュアセット上で繰り広げられる「川北演出」の極致ともいえる爆発・破壊描写、「自分がお産婆さんをやったから、最後も看取る責任も感じまして」という伊福部昭氏の魂の籠った重低音溢れるサウンドなど、あげれば枚挙に暇がないほど、他作品と比べても圧倒的といえるような演出が詰まりに詰まっている。それもこれも、ゴジラという怪獣の最期を作り上げるため、特撮映画製作スタッフの技術の総決算と執念が集積した結果であろう。

東宝特撮映画の全てをつぎ込んで製作された本作の魅力はとてもここだけでは語りつくせないが、一つだけ、この作品から強く感じられる「ロマン」について語ろう。それは、ゴジラという生物の、自身の命の終わりが近づこうとも最後の最後まで死力を尽くし戦う、怪獣王として威風堂々たる有様である。心臓部ともいえる原子炉が暴走し、生命としての限界を迎えつつあるゴジラ最後の闘いは、40数年前に自身の同胞を屠った最終兵器「オキシジェン・デストロイアー」の落とし子ともいえるデストロイアと、生死の限界すら超えた死闘である。前々作「VSメカゴジラ」および前作「VSスペースゴジラ」において、同族ベビーゴジラ/リトルゴジラのために戦ってきたゴジラであるが、今作においてもその闘いの理由はゴジラジュニアに起因するところが大きい。しかしながら、今作のゴジラにとってデストロイアとの戦いはこれまでのような「何かを守るための」ものではなく、同族を殺された敵討ち、憎き外敵を「殺し尽くす」ための決闘である。自身の最後の仲間であるゴジラジュニアを無残にも殺害されたゴジラは、自らの命の危険も顧みず、燃え上がるような怒りに身を任せ、溢れ出るエネルギーで周囲を焼き尽くしながらデストロイアに襲いかかる。かつてここまでゴジラが怒り狂ったことはないだろう。初代ゴジラを葬ったオキシジェン・デストロイアーの恐るべき力さえ意に介さず、完全生命体たるデストロイアですら死に怯えるほどの劫火を、般若の如き形相で放ち続けるゴジラ。一連のシリーズにて「生物」としての側面を数多く描写されてきたゴジラであるが、その本質が「燃え上がるような怒り」と「いかなるものにも超えることのできない圧倒的な力」にあることを、最終作にして我々にこれでもかと見せつけてくれるのである。瀕死の重傷を負った仲間の無残な姿に涙し、その残り僅かな命を慈しむ一方、自らが死の際に立ちながらも決して強敵に退くことはなく、神の如き力を奮い蹂躙する。そんな、怪獣王ゴジラのもつ魅力のひとつひとつが、消え入る瞬間最大に燃え上がる蝋燭の炎のように強烈に銀幕に映し出される。そして、闘いを終えたゴジラは静かに眠りにつくのである。

人間の業によって生み出されながらも、いち生命体として圧倒的なまでに生を謳歌した怪獣、ゴジラ。本作を観る人ならば、恐らく少なくない数のゴジラ映画に触れ、それぞれがそれぞれにゴジラという怪獣に対し愛着や憧憬、畏怖といった様々な感情を持ち合わせていることだろう。そのような人たちには、ここで自分の「ロマン」についてつらつらと語るのもおこがましいことではないか、とも思う。ぜひ、特撮怪獣映画鑑賞の締めとして、個人の思うままにゴジラという怪獣の最期を看取ってあげてほしいと思う。

以下見どころ

・全て
OPからEDまで、すべてが見どころである。ご賞味あれ。

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References