※ネタバレ全開なので未視聴の方はご注意。
これは私たちが
少し賢くなって
怪獣のことが分からなくなるまでのお話
謎は解けて
不思議が増えて
事件は終わり
片づけが増え
僕たちが?
私が?
以前より少し賢くなって
怪獣のことが少し分かるようになるまでのお話
そうしてお話は、こう始まる
ゴジラS.Pにみる怪獣像
いきなりだが、自分にとって”良い怪獣映画”というのは、すべてが終わった後に「さて、あの怪獣は一体なんだったのだろう」と自問できる映画だと思っている。ゴジラ(1954)でも、シン・ゴジラでも。それらの”大傑作”と呼んで差し支えないような作品をいつ観ても、視聴後の胸に去来するのは、「あの怪獣はなんだったんだろう?」という、問いだ。
ゴジラとは何か、ラドンとは何か、モスラとは、ギドラとは、アンギラスとは……。見たままを捉えるのは簡単だ。だが、それらの怪獣が、作品の中でどんな存在として描かれていたのか。怪獣、怪しい獣。物語の中で嵐のように現れ、災害のようにすべてを潰滅させ、また嵐のように過ぎ去っていくものたち。
怪獣映画の登場人物は、日常から非日常への突然の転落に戸惑い、理不尽な暴力に翻弄される。災厄が過ぎ去った後、彼らもまた思うだろう、あの怪獣は一体なんだったのだろうか?と。超自然的な存在が自らの人生に何を与え、何を奪っていったのか。その随想を抱えながら、彼ら彼女らは”怪獣のいた世界”を生きていくことになる。
我々はどうだろう。視聴者は物語の主人公にはなれない。しかし、”外側”の視点から、怪獣が物語の中でどんな”意味”をもって存在していたのか、それは物語の世界観にどのように影響され、また影響したのだろうか、それを考えること、あるいは感じることこそが、「怪獣映画」という物語に”没頭”することなのではないか、と思っている。
「怪獣とは、圧倒的な生命力の発現」。これは自分の最も好きな捉え方だ。怪獣は、その世界に存在する他の生き物と同じく、一個の、しかしながら非常識に強大な生命である。この夏は本作に続いてハリウッドの大作「ゴジラVSコング」を劇場で楽しむことのできる、怪獣オタクにとっては非常に贅沢な時間であったが、モンスターバースの怪獣=タイタンの象徴するものこそ、圧倒的な生命力であると感じる。VSコングを観た後に、「怪獣とはなにか?」など難しい問いを頭の中で捏ね繰り回す必要はない。ゴジラもコングも、太古から続く巨大な生命の系譜の末裔であり、モンスターバースの地球を支配する、いわば自然界の神様のような存在である。神様と神様の覇権をかけた争いが起きた。そこに人類が下手に手を出したので、大きなしっぺ返しを食らうことになった。あれはそういう話だ。それ以上でもそれ以下でもない。
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前置きはこのくらいにして、ゴジラS.Pの話をしよう。ラドンは、アンギラスは、マンダは、シャランガは、ジェットジャガーは、そしてゴジラは、あの物語の中で一体なんだったのか?ハリウッドの形作った圧倒的な自然の化身達とは違い、あの怪獣たちを単なる”自然の産物”と見ることは難しい。個としての存在感を持ちながら、霞のように捉え難い、ある種の不気味さももつ。そんなゴジラS.Pの怪獣たちは「一体なんだったのか?」。
ゴジラS.Pという物語の中で、我々は”現代に現れた怪異”としての怪獣を見ていたのではないか、とふと思った。これでもかというほどの難解なSF用語の乱流の中で、どこか懐かしく、どこか新しく、そしてやはりどこか古めかしい、いつかのどこかにいたような、怪しく異なるものたち。自分がこの夏に見たものは、SFという皮を被った、「怪獣という”現象”が現実を跋扈する、祭りの出し物のような、狂言の舞台のような、神前の儀式のような、そんな、ひと夏の怪異譚」だった。それがゴジラS.Pという物語だったのではないか。
あのすべてが終わった青空の下で、そういう話をしたいと思う。
小さな日常の侵略者
物語は小さな町の小さな工場の日常から始まる。祭りの夜、怪しげな洋館で次々と起こる怪事件の噂、行方不明となった館のオーナー、ひとりでに鳴り出す鉱石ラジオ、聞き覚えの無い異国の民謡、波打つように点滅する光、どこかで聞いたような咆哮。
怪獣の雰囲気を感じるながらも、どこかスケールの合わない、「小さな日常の事件めいた出来事」から始まるストーリー。この展開は、実はとても”昭和的”だ。特に昭和初期の怪獣映画では、怪獣は中々その姿を見せなかった。「空の大怪獣ラドン」がこの場合良い例となるだろう。あの物語も、始まりは九州の(その時代なら)どこにでもあるような炭鉱で起きた怪事件が発端だった。怪獣の姿は全く見えずとも、日常では絶対に起こりえないような何かが、得体のしれない何者かによって起こされている。怪獣映画というよりはホラー映画と思い違えてしまう、おどろおどろしい雰囲気が特徴的な映画だ。
そのような”古き良き”、そしてちょっぴり怖い怪獣映画をどことなく思い起こさせるような不審な”掴み”、日常に潜む影のような違和感を染み出させるようなストーリーテリング、第1話開始5分にして既に、「これは近頃の怪獣映画とは違うぞ」と思わせるにおいがこの作品にはある。
そして、これまた印象的な浮世絵風の壁画「古史羅ノ図」。これは実在する歌川国芳の錦絵「讃岐院眷属をして為朝をすくふ図」を”もじった”ものだ。
ここでは、実在の?妖怪であるワニザメがゴジラのモチーフとなっており、ラドンは擬人化されたように天狗の姿形を取っている。
怪獣 禍獣 災いのケモノ 怪獣憤然として怒れるありさま
眼は百煉の鏡に朱を注げるごとく
牙は千口の劔を逆さまに植えたるがごとく
”ゴジラ”
これらの”怪獣のようなものたち”は、一体どこから来たのか?人々の伝承が、偶然我々の知る怪獣の形に符合したのか?ゴジラのようなもの、ラドンのようなものは、物語の始まる遥か前に存在していたのか?いまもこの世界のどこかにいるのか?13話構成の僅か開始5分のプロローグの間に、ゴジラS.Pという作品はこのような問いを我々に想起させてくる。そう、この怪獣のようなモノたちは何か、という問いである。
日常に交じる、どこかで見たような、聞いたような、怪しいものたちの存在。
ゴジラS.P第1話では、実は作品全体の謳い文句ほどSF的要素は前面に出ておらず、どちらかといえばそのメインの語り掛けは、伝奇物のような、日常と非日常の境界にある闇を意識させるような切り口から始まっている。
「空想生物研究」というキーワードとともに仄めかされる、この世ならざるモノ、”この世界”の成り立ちの裏に潜むモノたち。このモノたちを我々は何と呼んでいるか、怪獣?いや、ここではあえて”怪異”と呼びたい。
日常と非日常のあいだ、昼と夜のあいだ、村と山や海のあいだ、この世とあの世のあいだ、そのような境界にこそ怪異は潜む、そして、”あちら側”が”こちら側”に少しだけ傾いたその瞬間、つまりは”特異点”に、怪異は我々の日常に姿を現すのである。
聞き慣れた声、しかし見慣れた姿とは相容れない異形、まるで最初からこの世界にいたかのように静かに飛来する赤い影。ネオンの看板に降り立ち、不慣れに地上へと降り立つ在りし日に見たアクション。商店街の夏祭りを惨劇の場に変えるのには十分に大きく、だが物語の世界全体を塗り替えるには物足りない、「等身大」の怪異。
これがゴジラS.Pの怪獣だ。ゴジラS.Pという物語は、モンスターバースのように壮大な幕開けもなく、シンゴジラのような現実感もなく、どこか作られたような感覚のある”舞台”の日常に、伝奇、あるいは空想の世界から染み出してきたかのような侵略者、見たことがあるような、ないような、そんな怪しく異なるモノの咆哮で始まる。
ーそして我々は同時に、この物語の主役であるはずの「王」の、而して予想外に変わり果てた姿を見る。
忘れねばこそ 思い出ださず候
これは亡霊である。我々ならば誰もが知っている。あるいは、もしかしたら今では多くの人が忘れてしまった、あるいはそもそも知らないのかもしれない。東京湾の海の底に眠っているはずの、あの一体の、すべての始まりとなった怪獣の成れの果て。
「はるかなるいえじ」
数十年の時を経て、我々はあの始まりの一匹に戻ってきた。一連の怪事件の発端、「怪異」の結びつく先はここかもしれないと、物語は示唆してオープニングの幕を閉じる。
懐かしく奇妙なモノたち
ゴジラS.Pという作品は序盤から中盤に差し掛かるにつれ、怪獣出現の裏に存在する未知の物質「アーキタイプ」というマクガフィンを科学的検証によって追いかけていくSFパートと、アーキタイプの引き起こす「現象」としての怪獣の被害に大滝ファクトリーチームが現場の知恵と工夫で立ち向かうという怪獣パートに分かれ、それぞれが二人の天才・神野銘と有川ユンによってに進行されていく。
少し脇道にそれるが、ゴジラS.Pに登場する人物は皆、そのキャラクターの濃さにおいてアニメ特有の外連味ある存在感をもってはいるが、その実、存在的には非常に「記号的」であると言っていい。主人公格であるユンや銘でさえ、「そのキャラクターが生まれるに至った」背景というものが全く見えない。どんな人間で、これまでどんな人生を歩んできて、どんな経緯があって、いま我々が見ているストーリーに登場することとなったのか、その理由が全く見えてこない。簡単に言えば、「ストーリー上、そのような特徴を有した人物が必要だからそのようなキャラとして配置された」、駒のような存在といってもいいだろう。大滝のおやっさんと李博士はストーリー進行の焚き付け役、ハベルとB.Bはそれぞれ怪獣パート(ユンパート)とSFパート(銘パート)の実況・解説役、それを取り巻く諸々の人物たちも、例外なく「それっぽい人物を必要な箇所に配置した駒」に過ぎない。
この何かありそうで何もなかった、怪しげな研究所の怪しげな所長役・山本常友もまた、ゴジラS.Pのキャラクター性を代表する人物だろう。彼はストーリー上、そこにいる必要があったから居ただけである。
我々はユンや銘に十分に感情移入できただろうか?否、と答える人の方が多いのではないだろうか?しかしそれ自体はゴジラS.Pという物語に没頭する上で、実はそれほど重要なことではない。彼らの言動はすべて、ストーリーを前に進めるために必要なトリガーに過ぎないからである。共感する必要はない、理解が出来れば良い。理解もできなくて良いのかもしれない。物語のロジックを進めるためのコードだと受け入れても良い。
むしろ、我々が感情移入したのはジェットジャガー=ユングやペロ2といったAI達の方ではなかっただろうか。彼らはストーリーの中で次々と色んな事柄を学習し、成長する。人間に寄り添い、人間を理解し、人間のための自己犠牲精神を獲得する。彼らもまた”そうする必要”があったから配置された駒であるのだが、他のキャラクターに無い変化を見せてくれること、配役から外れ、さらに自立的に振舞おうとする(ように見える)その姿が”外側”から物語を見る我々の共感を呼ぶのかもしれない。その実、ゴジラS.Pのストーリー骨子は、彼らの冒険と成長の物語であった、というのは最終回までを迎えた者ならば理解できるだろう。
愛すべき「可能性のケモノ」
さて、実はこの記号的なキャラクターというものには既視感がある。昭和初期の怪獣映画で登場する人物たちだ。例えば、怪獣の存在を信じずにすぐに銃で物事を解決したがる刑事や、天才的な頭脳で怪獣の性質を解明しトンデモ画期的な科学知識で解決策を捻りだす天才博士、取材欲から余計なことをして怪獣という災いを世に広めてしまう新聞記者。怪獣映画の展開するストーリー中で”それっぽい人物としてそこにいる”ために配置された記号性をこれらのキャラクターは持っていた。
しかし、彼ら彼女らは、ストーリー中でのいちキャラクターという以上に、「誰某の俳優・女優が演じている」という強烈な”背景設定”をもっていた。視聴者が共感を有するに足る人物的背景は、それを演じる現実の人間が既にもっていたのである。カッコいい二枚目俳優が演じるキャラはその時点で既にカッコいいのだ。
この点を考えると、ゴジラS.Pの登場人物は実に昭和的なキャラクター像を持ちながら、現実的な共感性を引き起こさない、どこか奇妙なハリボテ感を醸し出している。この何とも言えないちぐはぐさが、逆にキャラクターのユーモアを引き出しているのかもしれない。ちなみに、昭和怪獣映画なら銘とユンはそれぞれ、佐原健二や平田明彦のようなイケメン俳優あるいはダンディなオジサン俳優の演じる役となっていただろう。
話を戻そう。この物語の序盤から中盤は、まだアーキタイプの謎解きを中心としたSFパートは下拵えの段階だ。ストーリーを牽引したのは「ラドン」と「アンギラス」という、我々の良く知る怪獣たちだった。縁日の舞台で繰り広げられるラドンvsジェットジャガーとの第一戦、海から生まれ”赤い雲”と形容される群れとなり、大規模侵攻を開始したラドンに対する誘導作戦と脱出劇、”未来を視る”怪獣アンギラスとの一進一退の攻防。その中で、この二つの怪獣はそれまでのゴジラ映画での扱いとは異なり、等身大の脅威として描かれていた。
ラドンは翼長5mほどといったところか。形態により大きさが若干異なるが、人が単体で相手をするには大きすぎ、ジェットジャガーのような重機クラスで相手をするのに適したサイズ感だ。アンギラスはそれよりも巨大だが、全長はせいぜい15m程度といったところ。50mを超え、基本的に戦車などの兵器ですら手の出しようがなかったこれまでのラドンやアンギラスと違い、一般人(といっても装備は少々過激にすぎるが)でもなんとか対処可能なレベル感で”調整”をされている。ちょうどいい具合に、等身大の脅威だ。
このサイズ感が、ユン達をはじめとした登場人物にこれらの怪獣と対峙することを可能にしたともいえる。 吐息を感じるほどの目の前に怪獣がいて、こちらを見据えている。自分に向けられる何かしらの意識を感じる。敵意なのか、それとも獲物として見られているのか。言葉を喋らなくても、何を思っているのか、どんな意思を持っているのかが何となく感じ取ることができるような、そんな距離感。これまで我々が慣れ親しんできた二体の怪獣像とは異なる、怪獣と人間との、文字通り肉薄する関係性がゴジラS.Pでは示されている。
等身大の存在として人間と対峙する、いつか慣れ親しんだ怪獣たち
このような怪獣と対峙するやり取りを通じて、我々はゴジラS.P版ラドンやアンギラスの正体に迫ることができる。劇中ではラドンが電波怪獣であることや、アンギラスが未来を直接垣間見ることがメインに取り上げられたが、怪獣のサイズが人間のそれに近づくほど、それだけ人間の視点での解像度が上がり、生物学的にも、あるいは行動学的にも怪獣の性質が分かりやすくなるものだ。
ラドンは電波により同類とコミュニケーションを取っているようだが、その”言葉”は科学的に分析して逆利用できるほどにはパターン性があり、これが序盤の山場におけるキーファクターともなった。科学的考察により怪獣の性質を推測し、人間側の用意できる手段で怪獣のもたらす脅威を退ける。毎週30分の枠で観ているということもあり、この怪獣攻略のためのプロセスは、どちらかといえばゴジラ映画よりもウルトラマンのそれを思い起こさせる演出だった。それを狙ってのことだろうか、ユンと侍が不利な状況から逆転しラドンの包囲網から脱出する場面で流れた曲も、かの有名な「ワンダバ」であった。
怪獣の性質が解明されていく一方で、「何故そのような生物が存在するのか?」という理由が、実は劇中ではほとんど語られない。今作のラドンと同じく群体で行動し、電磁波をコミュニケーションツールとする怪獣として、SF怪獣映画の傑作として名高い「ガメラ2」に登場したレギオンがいる。同じく”等身大の怪獣”である小型レギオンにはれっきとした行動原理があった。それは自らのコミュニケーションを阻害する他者を排除し、テリトリーを広げ、繁殖のための拠点を形成すること。だから人間の行動圏内に攻撃的に進出し、数々の大被害をもたらした。しかし、S.P版ラドンにはそのような生殖=生物としての本能的な行動原理もみえない。
劇中では科学者による解剖所見が提示されるが、結局は詳しいことは不明、ラドンという生物を定義するに十分な情報を我々は得ることが出来なかった。ラドンには消化器官が無い。食べるという生物としての基本的な機能がないのに何故生身の人間を襲うような行動を取るのか?要はこの怪獣には、体内から放射性物質が検出=ラドンという「記号」が当てはめられた以外に、太古の翼竜の生き残りが放射性物質の影響を受けて巨大化した、というような分かりやすく根源的な設定はなにも与えられていないのだ。この怪獣の存在目的は何か、それが明かされないのである。
アンギラスはどうだろうか?姿形は、これまでこの怪獣に慣れ親しんできた我々から見てもそれと分かるに足るデザインだ。ラドンとは違い捕食行動も取るようで、怪獣の死体から栄養源(紅塵)を摂取する、体を休ませるために水分を取る、出血をするという描写もあり、消化器や循環器のような従来の生物的なシステムをもつ。ラドンよりもさらに好戦的な見た目をしているが、気性は温厚寄りであり、どちらかといえば自衛のために戦闘行動を取るような印象がある。また、好奇心が強く、敵対心というよりは興味本位で対象に近づく癖があり、脅威でなくなったものに対してはじゃれるような行動をするがすぐに飽きる、といった、なんだか猫のような性格をしている。
「じゃれつき怪獣」という新たなアイデンティティを獲得した我らが古参
アンギラスのこの個性は、ジェットジャガーとの大立ち回り、等身大の怪獣との切った張ったの中盤戦を演じるにはとても”ハマりが良い”要素だった。これまでゴジラ作品に登場したアンギラスにはそのような性質は(二代目の温厚設定以外)なかったため、これはゴジラS.Pという物語を怪獣モノとして魅力的に展開するために用意された新たなオリジナリティといって良いだろう。
一方で、ラドンのもつ急激な進化(変異)速度や、アンギラスのもつ未来の先取り能力は、アーキタイプとの関連性を我々に連想させるだろう。怪獣の性質それ自体が、アーキタイプを追うSFパート(銘パート)と、目の前に現れた現実的な脅威に対処する怪獣パート(ユンパート)の結節点であるとも言える。
このように物語の進行に重要な要素としての”性質”は提示されつつも、これらの怪獣はいつ、どうやって、なぜ生まれたのか?その”正体”は、言ってしまえば”不明”のまま流されてしまった。ラドンは全世界に拡散し研究どころではなくなり、アンギラスはこの一体を最後に物語自体から退場した。正体不明といえばこの怪獣もそうだ。
クモンガ……クモンガ?我々のイメージの中にあるクモンガの面影を残しながらも、確実に違うシルエット、顔つきはメガロ、裂けた中身からはヘドラ様の体液、バリエーションによってはカマキラスの鎌、といういくつもの「記号」がないまぜにされたグロテスクさ。妖怪でいえば「鵺」といったところか。ラドンやアンギラスとは異なり、およそ人間が理解可能な意思というものを感じさせない、人間のことを餌としかみていないような生々しい生物性をもちながらも、この怪獣の正体は、それどころか名前さえもまともには劇中では触れられなかった。
マンダも同じくそうである。「マンモス級の蛇」ということで名付けられたそのシルエットには確かに往年のマンダの雰囲気を感じ取ることは出来るが、形態は昆虫や甲殻類を思わせる作りであり、およそ「龍」とはかけ離れている。またその行動原理も、なぜ陸を目指すのか、何が目的なのか、全く分からないままにこの怪獣は世界の海や川を瞬く間に侵食していった。
サルンガは明らかにガバラとキングコングのハイブリッドなのだが、名前からして全く違うものになっている。神野銘パートの実質ラスボス的位置を占め、紅塵やアーキタイプや特異点との密接な関係性が明らかにされると思いきや、その正体についてはついぞ謎のままであった…。
今回の「なにしに出てきた…?」枠
しかし造形は中々に素敵な新怪獣である。
ゴジラS.Pに登場する怪獣がもつこれらの特徴、どことなく既視感のあるシルエットに、しかし慣れ親しんだ存在にはない新たな(そして異質な)性質や能力、根源的な正体の分からないあやふやさ、そして神出鬼没さ。これらは怪獣たちを物語の中でどのように意味づけているのだろうか。
やがてゴジラに成る「現象」
ーーー怪獣とは、「現象」だ。
これこそがゴジラS.Pという作品のもつ怪獣像なのだと思う。本来怪獣とは”ありえない存在”だ。生物としてのあり得なさ、性質の突飛さ。従来の怪獣映画では、「作品の舞台上では、その作品内での科学論理としては、”ありえる”存在」として怪獣を描くことを常としていた。テレビやスクリーンの中の世界では、ゴジラも、ラドンも、アンギラスも、クモンガも、そしてマンダも、あたかも自然に存在し得る生物だったわけだ。しかし、今作では銘やユンのいる世界においても、このような生物の存在は”ありえない”とされている。そう、空想生物だ。ありえないモノがあり得ている。この矛盾が”現象”として生じる所以こそが、アーキタイプと特異点という舞台装置なわけだ。怪獣は異次元の存在=空想上ではあり得るモノ、であり、特異点という異次元への穴を通じ、アーキタイプという未知の物質を媒介として世界へ顕現する。
正体不明なのも当然だ。なぜなら、元々そんなものはいなかったのだから。神出鬼没なのも当然だ、なぜなら元々いなかったものが、「向こう側」の世界から特異点を通じてこの世界に”写像”されているのだから。
怪獣という現象は、魑魅魍魎、跳梁跋扈の様子を呈しながら、そのうちにある一点へと収束し始める。ラドンも、アンギラスも、マンダも、クモンガも、そしてサルンガも、あくまで特異点から現世にあふれ出した現象の末端に過ぎない。この現象には、確固とした「中心」が存在する。そこがゴジラS.Pという物語の核となるものだ。
それはまるで百鬼夜行の最後に現れる空亡のような、禍々しく炎と黒雲を纏う、黙示録の獣。破局と名付けられた、この上なく強大な「怪獣という現象」の親玉、ゴジラである。
しかし、それは我々の想像していたゴジラとはあまりにもかけ離れたモノとして出現した。アクアティリス、アンフィビア、テレストリスと、話が進むごとに姿形を大きく変えるゴジラ”のような”モノ。最終形態であるウルティマの姿だけは本作の放映前に明らかになっていることもあり、アクアティリスやアンフィビアの姿を見た時、「これがゴジラになる」という発想はむしろ憚られるほど、その形態は我々の知っているゴジラとは似ても似つかぬ様相をしていた。「これがゴジラの証だ」といわんばかりの、あの有名なマーチをバックグラウンドに進撃を続ける、我々の知るゴジラとは似ているようで、どこか決定的に異なるこれら異形のモノたち。
これらの形態変化を行うゴジラとしてはシン・ゴジラが記憶に新しいが、”まるで進化のような変態”をするシン・ゴジラとゴジラS.Pの三形態の何が違うのか。それは、それぞれの形態としての完成度だと思う。ゴジラ・ウルティマになるまでの経過点として現れたこれらの三形態は、しかしそれ自体で既に「完成」している。アクアティリスも、アンフィビアも、テレストリスも、それぞれが別怪獣として扱っていいほど完成されたデザインと機能を有しているのだ。
これらの形態にはモチーフがある。アクアティリスはチタノザウルス、アンフィビアはバラン、テレストリスはゴロザウルス(ミニラ?)と、これまでの東宝怪獣映画で一個の怪獣として個性を確立したものたちが、それぞれの形態にその面影を潜ませている。シン・ゴジラが”変態”あるいは”進化”をするゴジラならば、これらは”変身”をするゴジラといって良い。
脚本である円城塔氏にならって言葉遊びをすれば、シン・ゴジラではゴジラに”為る”生物を、ゴジラS.Pはゴジラと”成る”現象を我々は見ていたのだろうと思う。そう、あのゴジラもまた、特異点を通じて現世に溢れ出た、空想上の存在を投影した「怪獣という現象」のひとつであると言えるのであれば。個体としての性質すら根本から変えるほどの大変身を繰り返し、ついに怪獣の頂点たるゴジラに行きついた異形。そのあり得ない”成り様”を可能にしたのがアーキタイプという、何でもありのSF的「魔法の杖」というわけだ。杖を一振りして起こった一連の現象、”やがてゴジラに至る有象無象”こそが、我々がゴジラS.Pの物語の中で出逢った怪獣たちの正体なのである。
思えばラドンも、アンギラスも、そしてその他の怪獣たちも、その正体は”ゴジラと成る”現象の一端であったのかもしれない。ラドンにもゴジラ同様の背鰭があった。あれもゴジラに成ろうとした名残なのかもしれない。怪獣たちが互いに争い、殺し合っていたのは、最終的にゴジラと成るためのバトルロワイアルであったのかもしれない。最後に残った一体がゴジラに成ったとき、それがまさに”破局”の始まりであった。
「ゴジラとは何か?」、それは”破局”という終焉の具現化だ。最も破局に近い力を付けた怪獣がゴジラと成る、破局というゴールに向かう生存競争に打ち勝ったのが、ウルティマという名を与えられた究極のゴジラだ。
歴代のゴジラを象徴する尊大なマーチと、頂点の出現を称えるような、あるいは破局の到来に震えるようなコーラスの中、赤い爆煙の内よりゆったりと強大な姿を現すウルティマの登場シーン、そこから神の雷を思わせるような白熱の一閃ですべてを薙ぎ払う破壊のシーケンスは、悲劇的な音色に破滅的な美しさを煌めかせたシンゴジラの熱線シーンとはまた異なる畏怖を我々に抱かせてくれる。怪獣という現象を描き続けたゴジラS.Pの物語としての極限は間違いなく”ここ”だ。等身大の脅威との身の丈の攻防を描きながら、SF的背景の紐解きで間を繋ぎ、溜めに溜めた圧倒的破壊描写への期待感と絶望感、これが一気に解放される瞬間こそが、”ゴジラと成る現象”の目指した到達点であると言えるだろう。
現象の到達点
果たして、”成った”ゴジラはその力のままに世界を終末へと誘う。物理法則を捻じ曲げ、生態系を根本から書き換わる。まるであの世がこの世へと侵食し、存在するはずのなかったモノたちが次々に跋扈し始める、伝奇の世界が現実に形作られていくような黙示録の阿鼻叫喚の中、もはや一個の怪獣としての規模すら超えたウルティマ。概念レベルの脅威としてゴジラを描いた作品はこれが初めてではない、GODZILLA怪獣惑星に登場したゴジラ・アースもまた、地球意思の具現たる、ひとつの生命の枠を超えた絶対的な力の概念を付与されていた。守護者としての性格が強かったアースとは対照的に、ウルティマは完全なる”侵略者”だ。そのスケールはもちろん、ラドンやアンギラスその他の怪獣の比ではない。”災害”という言葉にすら収まらない、人々の生活も、都市も、世界も、歴史も、宇宙も、そして次元すらも崩壊させうる究極の破滅。日常への小さな侵略者とともに始まったゴジラS.Pという物語がこのような極値に到達することは、果たして誰が予想できただろうか?
そして、この圧倒的な姿を目の前にして、改めて考える。ゴジラ・ウルティマとはどんな怪獣なのか。破局の具現としての有様は、その実ほかの怪獣たちと同じく、ウルティマという名前の付けられた”現象”の記述に過ぎない。圧倒的なスケールに翻弄され忘れがちだが、ウルティマという怪獣もまた、空想の世界にいる”ありえないモノ”がアーキタイプを通じてこの世に写像されているだけに過ぎない。これら一連の怪獣現象の根本はどこにあるのか?
そう考えた時に、我々はやはり、もう一度あの骨の元へと帰ってくるべきだろう。”ゴジラの骨”、怪獣とという現象を引き起こしたすべての発信源である。思えば、この骨の出自もストーリーの中ではついに不明のままであった。本当にゴジラの骨なのか?いつからそこにあったのか?古史羅ノ図との関係は?過去になにがあったのか?現在に現れたウルティマとの関係はあるのか?その答えが劇中で示されることはない。もしかしたら、あの骨は最終話で発動したODの作用により過去世界へと転移したウルティマなのかもしれない。JJやラドンと共に転移し、過去の世界で最後の死闘を繰り広げた姿が、あの古史羅ノ図なのかもしれない。しかし、これらはすべて、ただの推測に過ぎない。
重要なのは、ゴジラS.Pの怪獣たちは、すべてこの骨からはじまった”現象”の中にいた、ということだ。そして、その現象に我々は覚えがあるだろう。1954年に最初の”ゴジラ”が現れ、オキシジェンデストロイヤーにより骨となった瞬間から、「あのゴジラが、最後の一匹とは思えない」というあの言葉から、様々な姿形・性質をもつ多種多様な怪獣が跋扈する世界が始まったのだ。空想の世界にいたモノたちが、現実の映画として次々と現れる一大ジャンルの誕生。本作における現象としての怪獣像は、この”史実”をもじったものではないだろうか。
すべての怪獣という現象の始まり。
分かれた川は元に戻らない、死んだ人は生き返らない
でも最後はみんな海に。
本作の怪獣たちは、すべて根源たるゴジラの骨の持っていた概念の残滓が、紅塵、アーキタイプを経て現実の世界に投影されたものであるとすれば、この言葉もしっくりとくる。”あの”ゴジラは戻ってはこない。しかしその残滓より派生した、どこか懐かしく、しかしどこか新しく、時には複数のものが混ざり合った奇妙なあり様の怪獣たちが、最後にはウルティマという新しく強大なゴジラへと収束していくオムニバスな描写は、これまでの東宝特撮怪獣映画の歴史へのリスペクトも込めたオマージュなのではないか。
アーキタイプや特異点をめぐるハードSF的テキストの中での怪獣像と、メタとして東宝特撮映画のこれまでで展開されてきた怪獣像、この重なり合いを感じつつ、ただ懐かしいだけでない、現代的SFという新しい視点からリファインされたそれぞれの怪獣たちの活躍を楽しむ。特撮や怪獣のジャンルを追い続けてきた古参のファンも、本作から初めてそれに触れた視聴者も、異なる楽しみ方ができるこの構造こそが、ゴジラS.Pが展開した”怪獣という現象”の魅力であるといえるだろう。
物語の終わり
世界に滲みだし、すべてを侵食していった怪異譚。しかし、物語には終わりが必要である。「大詰め」の時だ。
黄蝶群飛、これ兵革の兆しなり。戦の予兆ってやつよ。
唯一、ゴジラの起こした破滅的な世界侵食から独立して現れたかのような黄金の群舞。モスラという怪獣のもつ神秘性を、最後の戦い、物語のクライマックスの到来を告げる予兆としての現象に昇華した、そんな幻想的な光景に見送られながら、有川ユンと大滝ファクトリーの面々は、自衛隊は、そしてジェットジャガーはすべての災厄の元へと走る。紡がれるタイトルは「はじまりのふたり」。
この解釈には色々なものがあると思うが、自分はやはり、「ふたり」とはゴジラとジェットジャガーのことではないのかと感じている。例えそれが神野銘と有川ユンのことを指すのであったとしても、彼ら彼女らの紡いだ物語の到達点にいるのは、この二体であるはずだからだ。
ゴジラ対ジェットジャガーというクライマックス。怪獣映画史というメタ視点から見れば、50年前に味方として共演した両者が、今度は敵同士としてマッチアップするという構図となり、ジェットジャガーは変わらず人類の希望として、ゴジラは打って変わり人類史の脅威として、世界の命運をかけた大一番で激突する。
SF的視点からみれば、並行的な時間の逆行と加速の中で、無数の自己との分裂と融合、そして進化を繰り返し、自己存在の覚醒を経て、ついに破局を食い止めるための最後の”コード”へと至ったペロ2と、人間との触れ合いとの中で情緒と精神を芽吹かせたジェットジャガー・ユングとが会合し、「奇跡」を起こす。奇跡の形は、多次元空間行列に表されたアーキタイプの対角化と、それによるこの世への線形写像というメカニズムによる超巨大化である。まさしくサイエンティフィック・フィクション。これまで等身大の存在として人の傍らにいたジェットジャガーが、人の手を離れ、眼前の超自然的脅威に対抗できる力を得て、”最後の希望”として戦いを挑む。描写としては対メガロでのジェットジャガー覚醒に対するオマージュだが、ペロ2&ユングという。物語の中で成長する人格をインストールすることで、ヒーローとしてのジェットジャガーPPへの感情移入をブーストさせている。
これはこれで心震える演出だが、一方で、本記事でずっと論じてきた、怪獣という現象による一連の騒動の締めくくりとして見るならば、これは、”異界の神を鎮めるための儀式”であり、ジェットジャガーは神前に捧げられた贄であると見做すこともできるだろう。
成長し続けた神が、宇宙よりも大きくなって、すべてをやり直すしかなくなる。
本作のゴジラは非可逆的かつ(現実的にはほぼ)解読不能な法則性に沿って膨張し続ける現象である。アーキタイプの元々存在していた多次元世界であれば”元に戻る”ことも可能であったかもしれないが、我々の世界では、すべてが崩壊し”やり直し”となるまで際限なく突き進む暴走機関となっている。むしろ、あのままでは限界まで巨大化し続けたゴジラ自身も世界と共に臨界を迎えた可能性が高いのではないか。ゴジラが一度迎えた死、メルトダウンをより致命的にスケールアップした”破局”ともいえよう。さながらそれは、現世に躍り出た怪異という存在が、譚として語られてきた人々の恐れのままに、災いのケモノとして、荒ぶる神として、鎮まる術を知らぬままに世界を飲み込んでいくように。
荒れ狂う神を退治するのではなく鎮め、元の世界に”帰す”、異界より溢れ出した現象を元の状態に”戻す”。この国で語られてきた神話や怪異譚に良く見られる物語の帰結を、難解なサイエンティフィック・フィクションの文脈に載せたものが本作における「大詰め」である。そして、ゴジラという神を鎮めるために必要な神前の捧げものが、完成されたOrthogonal Diagonalizerと、AIでありながら群体としての人間心理に近い精神性をアイデンティティとして獲得した、いわば神の領域に踏み込んだジェットジャガーPPというわけだ。これは、個人として人間の倫理に従い、科学者の矜持と自らの命すら捨てて、東京湾を死の海にする破壊兵器Oxygen Destroyerを使用し、ゴジラを”退治”するためにひとり海の底へと落ちていった芹沢博士との対比とも捉えることができるのではないか。
残された人々に達者で暮らせと今際の言葉を伝え、すべての生命を絶つ泡に飲み込まれていった芹沢博士。自分を生み出し、成長させてくれた有川ユンに「ありがとう」と感謝の言葉を伝え、ゴジラの熱線に貫かれたジェットジャガー。かくしてO.Dは起動する。断末魔の咆哮の代わりに目を瞑るほどの閃光が迸り、次に現れたのは生物の死骸が折り重なる無色の海ではなく、青空のような結晶に覆われた静寂の世界。異界より溢れた赤い霧が晴れ、世界に正常の青が戻る。
ゴジラの末路については明確には語られていないが、非可逆な暴走状態が解除され、元いた世界に戻ったか、あるいは結晶の中でジェットジャガーとともに眠っているのかもしれない。あの子守歌に包まれながら…。
いずれにせよ、かくして荒ぶる神は鎮められたのだ。世界に傷跡は残りつつも、怪獣という現象は収まり、我々のいた日常の世界が戻ってきた。ひと夏の怪異譚の終わり。台風一過のような晴れ晴れとした青空の下で、この怪異譚の主人公たちが初めて顔を合わせる。彼らにはこれから、多くの時間をかけて語り尽くすべきことがあるだろう。
あの怪獣はなんだったのか?と。
それは我々も同じだ。ゴジラS.Pの怪獣たちとは、そしてゴジラS.Pという作品とはなんだったのかを、これからも考え続けていきたい。それこそが、ゴジラというジャンルを紡いでいくために、ファンとして出来ることだと思う。なぜなら怪獣とは、いつも我々の想像の先に誕生するモノ、まさに「空想生物学」の産物であるからだ。
そして今は、”あの骨”を巡る物語の続きを、その顛末が新たに語られることをまずは心待ちにしておきたい。
ー終
参考